2018年12月31日月曜日

〈あとがき〉2018

時は光の陰となって過ぎ去っていく。
気がつけば、今年は文脈レポートを一本も書いていなかった。
やはりベース基地は大切にせねば。書こう。
ここのところ『コンテキスター見聞記~半農半Xから国つ神へ』の校正作業に没頭していた。古い文章を読み続けていると、新しい文章を書くためのモチベーションは否が応でも高まってくる。
日々、フェイスブックでは情報発信をしているが、年間タイムラインを確認して整理整頓しないとトシヨリは「すごいトシヨリ」になれない。


老いの初期段階では、人の名前や固有名詞が浮かんでこない「失名症」や、人と話していると急に話を横から取っちゃって自分の話に持っていく「横取り症」が現れます。それから「同一志向症」。(中略)それと似たものに「整理整頓症」があります。 
『すごいトシヨリBOOK』(池内紀/毎日新聞出版/2017年)
僕の書斎は整理整頓とはほど遠いが、タイムラインはきちんとしておきたい。そうしなければ、コンテキスターはどこに向かっているのか、自分でも分からなくなるので。「忘却忘却症」に向かっているのは間違いないが。
前掲書より

世間様の情報も光の陰で氾濫し続けている。いいニュースと悪いニュースがある、と言いたいが、どうやら後者が前者を圧倒している。
個人的文脈としては、と書きたいところだが、文脈は個人的には成立しない。すべての文脈はつながっている。綾なす縁脈は諸行無常である。

2018年はいろいろあった。毎年、いろいろあるのだけど、今年は特に。

まずは出版タイムラインから。
盟友、原田明は言う。
「マラソンランナーがスタジアムに帰ってきたようやな。スタンドから応援します」
そうなのだ。10月29日に東京で「ボイジャー」の萩野正昭さんと打ち合わせをしたときから、ゴールは見えていた。でも匍匐前進。そんな感じだった。
原稿用紙(400字詰)513枚、20万5千文字の長いコースがある。何周もしながら、邪魔な石をどける。草を抜く。一周が終わる頃にはまた草が生えている。次の周回校正。でも、除草剤をまく気にはなれない。本人が「あー、きれいになった」と納得した段階で強制終了するしかない。また草は生える。それは自然なことである。

電子版を校了するためのデジタル式手書き校正

振り返れば、2015年以来、「国つ神と半農半X」というタイトルで原稿を書き続けてきた。「あっ、脱稿したみたい」と宣言したのは5月24日だった。
それから、また半年のときが流れて……。
しかたない、人は出版だけでは生きていけない。

盟友原田明に紙原稿を渡す。8月21日。

人はいつまでも生きるわけにはいかない。
6月8日。母が帰天した。94歳8ヶ月。2007年に坂出の老人ホームに入居して11年が経っていた。葬儀は遺言により家族葬。身内だけでほのぼのと見送る。昭和20年(1945年)2月2日に母が東京の八王子からふるさと小豆島に送った手紙を挨拶状で紹介した。


今年は家族の文脈でもいろいろあった。嬉しいことは次男の結婚。11月17日、挙式。ようやく父親の役割は終わる。

息子たち

『銀河鉄道の父』の言葉が身に沁みた。
父親であるというのは、要するに、左右に割れつつある大地にそれぞれ足を突き刺して立つことにほかならないのだ。いずれ股が裂けると知りながら、それでもなお子供への感情の矛盾をありのまま耐える。(中略)利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった。 
『銀河鉄道の父』(門井慶喜/講談社/2017年)

息子たちには謝りたいことだらけだけど、もうどうでもいい。
よくやった! ただそれだけ。


二人の孫も大きくなった。じじにお手紙を書いてくれるほどに。
少女Aが書けば少年Rが真似をする。ふたりは仲良しさんだ。


少女Aはモーニングを僕が着たら、「じじ、こどもみたい」と本質的な発言をした。
2011年生まれのアンファン・エスポワール(希望の子)は鋭い。


半農半X文脈でも大きな転機が訪れる。
2010年10月以来、僕の半農半Xベースであった「マイファーム箕面1号、2号、3号農園」が閉園する。突然のお知らせが来たのは4月24日。
この農園でともに過ごしてきたアドバイザーの芦田寒吉さんや仲間たちと対応に苦慮する。
それでも、僕はマイファーム創業者、西辻一真社長の志を応援したい。箕面で「自産自消」の火は消えない。

10月3日。撮影:芦田寒吉

で、あそこはどうなるのかって?
「シェア畑」という農園になる。マイファームより料金は高くなるのだろう。遊園地のような農園になるのかもしれない。
なぜ、そんなことに? まあいろいろあったのでしょう。

僕はマイファームを卒業することにした。新しい畑はふたつ(すぐそばだけど)。
5月4日、箕面在住、野津旅館関係者の縁で、そこを見た。気に入る。
ひとつは池がある。景観も畑の資産だ。そして、ここなら、まこもが育つ!


もうひとつは柵と駐車場がある。勝尾寺参道で山に近いので猪も鹿も来る。柵はありがたい。さらには駐車場。市民農園は駐車場がネックになる。


新しい畑はセンス・オブ・ワンダー!
実はまだ土質がよく分からない。久しぶりに大根と呼べる大根ができた。こんなに育つのは、前の人が肥料を入れすぎたのではないか、なぜ、こんなに虫に食われるのか、悩みはつきない。

野口種苗研究所の固定種、三浦大根

新しい畑に移ってから、「それなりの〈有機〉農法」をしてきた8年間で旧フミメイ農園の土は、相当疲れていたのかもしれない、と気づいた。
〈有機〉農法は「天地有機」に基づく農法のこと。詳しくは『コンテキスター見聞記~半農半Xから国つ神へ』の第二部第二章「環境農業考」を読んでください。


そして、マイファーム箕面はキンカントマトの聖地だった。
キンカントマトは文脈家を「タネとり百姓」にしてくれた。2013年以来、キンカントマトはマイファーム箕面で実り続けた。閉園が迫ってきた2018年末にも、まだ赤くなろうとする意思を持ち続けている。ふるさとの消滅を見届けようとしているのだろうか。

12月9日

2018年はキンカントマトの新しい物語が始まった年でもある。
きっかけは7月1日、野口勲講演会を聞きに行ったこと。野口先生はいきなりキンカントマトの話を始めた。実は、昨年も同じような講演会があった。僕は講演会後の懇親会で野口先生にキンカントマトのフライヤーを渡していたのだ。

去年、こちらで講演が終わったあとの懇親会で「今、わたしたちはこういう活動をしています、ということで、大阪在来種のトマトを普及するチラシをいただいたのですけど、これは最初に日本でつくられたF1トマト(タキイのF1〈福寿1号〉1948年。※引用者註)の耐病性をつけるためだけに導入されたもののタネがこぼれて野生化しちゃったやつを、これが大阪在来種のトマトですって言って、なんか広報活動をしているのを聞きまして、うーん、とちょっとうなっちゃったんですけど。決しておいしいからそれが栽培されてきたわけではなくて、どういうことにこれからなるのかな?と思いますけど。その後、どうなったか、今夜の懇親会でお聞きしたいと思います。今でもやってらっしゃいますかね、この「キンカントマト物語」(とフライヤーを取り出す)。 
野口勲講演会より(要約書き起こしは筆者)

最前列で講演を聞いていた僕はうーんとうなってしまった。今年の懇親会にももちろん参加したが、様々な話題が飛び交うなかで、キンカントマトの話を突っ込んですることはでできなかった。気になってしかたがない。ずっと「キンカントマトは大阪の在来種です」という広報をしてきたのだから。
野口勲さんといえば、タネの世界では権威である。これは続けてやりとりをして「新キンカントマト物語」を書くしかない。


僕は大胆にも、野口先生にキンカントマトを食べてもらった。その感想も含め、先生は丁寧に回答してくれた。しかも、栽培種と野生種の違いまで教えてくれる。栽培種は花弁が6枚、野生種は花弁が5枚。畑に行って、我がキンカントマトを観察する。



野口勲さんとのキンカントマト話を詳述すると年を越してしまう。
「新キンカントマト物語」の結論は以下。
野口種苗研究所は日本で唯一、固定種だけを扱うタネ屋さんです。その野口勲さんの見解は傾聴に値するものです。元が交配種だったとすれば、キンカントマトの形質がばらばらになるのも納得できます。野口さんは「キンカントマトを現状では在来種と呼ぶことはできない」と言います。
新しい説を確認しましょう。昭和30年(1955年)頃に日本のトマトは交配種が全盛となっていきます。その交配種トマトのどれかが野生化したものをおばあちゃんがタネ取りをして愛おしんできました。その志を市民農園ファーマーが受け継いだのです。
事実として、キンカントマトのタネはもう60年以上、繋がっています。この先も北摂のみならず各地でタネを繋いでいけば、晴れて「キンカントマトは(それぞれの地域の)在来種」と言える日が来るかもしれません。
「キンカントマトの未来に幸多からんことを祈ります」
野口勲さんからキンカントマトプロジェクトへ素敵なメッセージが届きました。
「市民農園発、未来の在来種!」これはもう新しい物語の始まりです。
私たちは今年も来年もタネを取り続けていきます。
この文章は『マイファームつくる通信2018年10月号』に寄稿したもの。僕のマイファーム卒業論文のようなものだ。


くわしくは下の画像をクリックしてください。8月4日の第6回キンカントマト食べ比べ会で発表したスライドが読めます。


ちなみにフミメイは二年連続で準優勝だった。今年の優勝はマイファーム箕面1号農園の畑友達。ご同慶の至りだ。


さて、次の文脈(タイムライン)へ急ごう。やっぱり米つくりかな。
2011年5月31日に人生初田植えをした。綾部の1000本プロジェクト。その頃には岡山県美作の上山棚田でもニワカ百姓修行をしていた。
それから3年間、綾部で米をつくった。2014年から2年間は善通寺田んぼ。ここは丸亀高校の同級生が地主様。品種はヒノヒカリ。2016年と17年は日吉胡麻の寒吉田んぼで念願のイセヒカリをつくる。

イセヒカリは年末までに、すべて食べた。うちの孫たちはパクパク米を食べるので足りなくなりそうだったので、途中、出雲イセヒカリ会から二袋(60キロ)仕入れた。それもなくなった。となれば、新米の出番。また善通寺田んぼに舞い戻ってつくった「おいでまい」。


今年の米つくりはつらかった。わずか三畝だったけど。手植えにこだわるんじゃなかった。尺角に植えて田車が通るようにしたかったのだけど、結局、ラインは曲がりくねって、そんなもんとおりゃせん。それでも4回、草取りをしてハゼ干しまでたどりついた。


来年はどうするか?
「あんたはトシヨリだということを自覚しなさい」と山の神(妻のこと)。
はい、わかりました、とうなだれる宿六(山の神の反対語)。


米つくりのおかげでおろそかになっていることがある。
鮎釣りの文脈である。36年間とキャリアだけは長いへっぽこ鮎師、今年は2回しか釣行しなかった。
徳島県勝浦川上流、上勝。和歌山県日高川上流、龍神。釣果は聞かないでほしい。冷凍保存している鮎は元旦に食べよう。

上勝の鮎
龍神の鮎

2月に野津旅館で次男の嫁家族と初顔合わせをした。そのとき、料理長が2017年龍神鮎を素敵に焼いてくれたのも鮎師としては誇りたい、と勝手に思っている。


釣行が減ったのは、米つくりの影響だけではない。2018年は天変地異の年だった。鮎釣りがどうこうという話をするのは申し訳ない。

6月18日、大阪北部地震。大きく揺れた。
7月6日、西日本豪雨。綾部の仲間たちのことも心配だった。
8月23日、台風20号。9月3日、台風21号。関空水没。箕面の山もズタズタになった。
9月6日、北海道地震。もちろん北海道にも友達はいる。

幸いなことに僕の周囲では大きな被害はなかった。今なお、復興の途上にある皆様をお見舞い申し上げます。

天変地異のさなかにでも、自己都合だけで動いている連中がいた。
「安倍晋三と不愉快な仲間たち」である。政治的文脈も語らないと年を越せない。

警報が鳴り響くなかでの「赤坂自民亭」。豪雨情報が優先されるべきときに破格の死刑執行。災害情報の頭に「安倍首相」をつけて総裁選の印象操作をしたNHK。書き出すと年を越してしまいそうな勢いになる。

とうとう安倍政権は6年も継続してしまった。僕は、この間、安倍夫妻と(逆説的に)ともにあった。常に彼らを観察してカウンター情報を発信するのに、どれだけ時間を費やしたことか。

3月13日、僕の66歳の誕生日。この日の朝日新聞一面は永久保存版だと思っている。


〈もり〉も〈かけ〉も製造者責任が果たされないまま年越し蕎麦となった。


それでも「森友学園問題を考える会」は諦めない。豊中市民の底力に僕は敬意をはらう。今年はデモに行くことも少なくなってしまった。集会に参加して、ほんの少し情報発信のお手伝いをするだけで、すみません!

国有地の異様な割引を見つけて、問題を発掘した木村真豊中市議の鳴り物は愚昧宰相が退陣するまで鳴り続けることだろう。

木村真さん。3月29日、大阪府庁デモ。

「考える会」の女性たちは本当に輝いている。
安倍(さん)!あんたのおかげで、大阪では〈輝く女性たち〉が表に出てきた。

3月29日、大阪府庁デモ
9月16日「アベの大罪を暴く」集会

実は「瑞穂の國記念小學院」の現場に行ったことがなかった。12月25日に写真を撮りに行く。国有地に飛行機が降りてくる。

「いい土地ですから前に進めてください」と誰かさんが言った場所の見当をつける。
前に進んでいたら、ジングルベルと教育勅語が響き渡っていたかもしれない土地。
後戻りしてもいいから、「然るべき人に然るべき責任」を取ってほしい。


一方の〈かけ〉については、前川喜平さんの話が印象的だった。
「あったことをなかったことにはできない」「面従腹背」。
1月16日に兵庫県民会館で催された講演会は超満員だった。


マジメな話の間にときどきしょーもないダジャレを入れながら大いに語った前川喜平さん。僕はますますファンになってしまった。前川さんが宮澤賢治の「生徒諸君に寄せる」を愛誦しているのは知っていた。それだけで前川さんの教育への熱情が理解できた。その結句は以下である。
「ああ諸君はいま/この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る/透明な風を感じないのか」
「未来圏からいい風が吹いてきてほしいものですね。今日は力と笑いをもらいました。ありがとうございました」と言いながら、僕は『これからの日本、これからの教育』にサインをもらった。 
フミメイon facebook

もう一人、今年、どうしても話を聞きたい人がいた。
元海軍兵、瀧本邦慶(たきもとくによし)さん。97歳。香川県三豊市出身。そこは僕の本籍地だった。
直接、お声を聞けるのはもしかしたら最後になるかもしれない。お相手は朝日新聞社会部の下地毅(しもじつよし)さん。瀧本さんの「遺言」を編んだ。
戦前の「うそをうそと知りつつ報道した」朝日新聞と現在の両論併記する自社を批判する気骨のある記者である。
「国は嘘をつく。だまされるな。自分の命は自分で守れ」。
初恋の話もした瀧本さんだが、どうしても伝えたいメッセージは明確だった。

4月28日、大阪市福島区民センター

そろそろ時間切れのようだ。あとはタイムラインにしたがって淡々と。でも出会いに感謝しながら。
大晦日に見た夢は、荷物を広げすぎて身動きが取れず、しかも帰り道が分からないものだった。

1月20日 まこも呉座編みワークショップ。香川県詫間町。カニさんと。


3月11日「バイバイ原発3・11きょうと」デモ。日吉胡麻みとき屋のシャウさんと歩く。


3月23日 綾部、ローカルビジネス研究会。塩見直紀さんと電通早期退職組。原田明、田中文夫、平田佳宏。三人の「田」者。


4月2日 石垣島。うさぎ堂。「傷だらけの店長」に会う。


4月14日 出雲アース館。まこも納豆ワークショップ。木嵜次郎さん、野津健司さんと。


4月22日 想田和弘監督。第七藝術劇場。『港町』は素晴らしかった。


5月27日 「大地の再生」矢野智徳さん。「風の草刈り」っていいね。

5

6月1日 第三回まこも講演会&シンポジウム。『コンテキスター見聞記』の登場人物たちと。


9月8日『河』京都公演。ヒロシマの詩画人、四國五郎さんの長男、光さん。

9
月29日 安来加納美術館。写真家、大石芳野さんと西村眞知子さん。写真家、高嶋敏展さん。

9月30日 山王寺棚田。第二のまこも姫と。


9月30日 松江テルサ。湿板写真家、エバレット・ブラウンさんと。


10月6日 全国まこもサミット、飛島村。静岡大学、河岸洋和先生。


10月7日 菰野町、まこも田。司辻校一さん、多久和厚さん。


10月28日 三舟山∞まこも取材。植野睦(まこと)さんと。この取材は来年、『續・出雲國まこも風土記』を書くときに活かします。


師走に入った頃、僕のPCの柔なワイヤレスキーボードは酷使に耐えかねて、半農じゃなかった、反応が悪くなった。10年前の無骨な有線キーボードを取り出して、書き続ける。
そろそろ年越しの準備をしよう。自分の時間も読者の時間も有限である。

『コンテキスター見聞記~半農半Xから国つ神へ』の〈あとがき〉は11月8日、太陰暦神無月1日。出雲では神有月が始まる日に書いた。
それから15日後、出雲大社に集まった八百万の神が去ろうとする直前、11月23日の古式新嘗祭の日。僕は出雲のアース館で、2018年を締めくくるメッセージを聞いた。


音楽療法家のエネルシアさんが言う。

「みんな、ばらばらにならないで。みんな持ち場を離れないで」

はい、分かりました、と文脈家は掌(たなごころ)を胸にそえた。

撮影:三品知子

コンテキスター・フミメイは来年も持ち場を守っていけるだろうか。

あとがきのあとがきとおしらせ

書き出すとやっぱり長くなってしまいます。読んでいただきありがとうございました。
世界中の人々が穏やかに年を越せますように。
来る年が少しでもまともにまこもなものになりますように。

『コンテキスター見聞記~半農半Xから国つ神へ』は2019年3月1日(金)に電子版と紙本(限定300部)を同時発行します。株式会社ボイジャーの理想書店からです。
画像をクリックしてください。田中文夫の棚に新著が加わります。



自費出版です。定価が決まったら、紙本の予約をお願いしていきたいと思います。
勝手を申しますが、僕のコンテキスター活動を支援していただければ、と愚考している次第です。なにとぞよろしくお願いします。

ブックデザイン:豊田美智子