2013年12月30日月曜日

文脈日記(本の未来)

2013年が終わる。
例によって疾風怒濤の年だった、と言いたいところだが今年は少し違う感慨がある。僕にとって、この一年は沈思黙考あるいは愚考三昧の年だった。

世の中の大きな流れが変わった年。そして家族構成が大きく変わった年。
吉本隆明の用語を借りるならば《共同幻想》《対幻想》《自己幻想》が絡み合って、自分の文脈が整理整頓できないこともあった年。

小難しい言葉の解説を試みると……。

《共同幻想》文脈。
政治的社会的大情況が大きな転換をした年。僕の《共同幻想》は“ラスト・オキュパイド・チルドレン”という立ち位置を基準にしている。1952年4月28日、日米講和条約の発効直前に生まれた「最後の占領された子供たち」としては容認できないことをアベ政権がやらかし続けた年だった。

《対幻想》文脈。
家族の情況。8月にうちのメイがあっちに行ってしまった。9月に次男が司法試験に合格して家を出て行った。11月に二人目の孫が誕生した。家族をベース基地にしてソーシャルなことに関わる時のバランス感覚に悩んだ年だった。

《自己幻想》文脈。
自分の情況。自分の中にある「幻想」というか「妄想」とどう向き合っていくのか。自分の意固地で偏屈な考え方とどう向き合っていくのかを考え続けた一年。

《共同幻想》と《対幻想》の矛盾はやっかいだ。
映画「サバイビング・プログレス-進歩の罠」の中に、こんなシーンが出てきた。
アマゾンの熱帯雨林で林業をする男の話だ。
「ここの木を伐り倒すと地球の酸素が少なくなるのは分かっています。でも俺は家族を養うために、今日も木を伐る必要があるのです」
うーむ、悩ましいな。

家族か社会的関与(アンガージュマン)か、これは二者択一にはいかないわけでして。
明治の社会活動家、田中正造は「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」と言いつつ、家族とは絶縁状態にしてから足尾鉱毒公害と対峙した。
同じ田中でも、僕にそこまでのことができる訳がない……。

てなことを愚考三昧していては師走の忙しさの中で読んでくれている人に申し訳ないので先に進みましょう。


ともあれ、年の終わりに『上山集楽物語~限界集落を超えて-』を上梓できたのは喜ばしいことだ。英田上山棚田団出版プロジェクトの仲間たちとご協力いただいた皆さん、そして吉備人出版さんに心から御礼申し上げます。

紙の本は重い。物理的も精神的にも文化的にも重い。
その重さを手に取って、紙の質感を確かめる。「親切第一」の精神でなされた装丁の肌触りを堪能する。


紙の本というのはパッケージメディアである。執筆、構成、編集、装丁、校正、印刷、配本、書店と連なる「大きなお金をかけた出版の仕組みをガラガラ動かして」からようやく読者の手に届く。

それだけの時間をかけてパッケージされるものは「なう」を伝えるものではない。特にノンフィクションといわれるジャンルの本は“一定の期間に起こったことの経過報告とその起因記述”をして発刊5年後でも読者を楽しませるコンテンツを持つべきであろう。

大きな仕組みを動かしてパッケージされたものは小さな変更も簡単にはできない。
だからこそ精神的に重い。そこにはきわめてナーバスな校正作業が付加される。
そして、一度パッケージにしてしまえば後は読者の評価に任せるしかない。


紙の本の文化的な重さはグーテンベルグが活版印刷を発明した15世紀から綿々と積み重ねられた歴史を背負っているからだ。
『上山集楽物語』を全国で一番最初に並べてくれた伊丹の本屋さん「フレンズ」のブックカバーには、こんな言葉があった。
「いつの時代も人間の基礎を作るのは本である」
そのとおりだと思う。
いつの時代にも活字中毒者はいたはずだ。否、グーテンベルグ以前は活字はなかったわけだから、何という言葉で表現すべきなのだろうか。パピルスに書かれたテキストを読むことに無上の快感を覚えていたエジプト文明人はいなかったのか。先達の書いたものをひたすら写本し続けて後世に伝えることに生涯を捧げた男あるいは女はいなかったのか。


過去にまなざしを飛ばした後は、本の「今そこにある未来」について愚考してみたい。年の終わりの試しとて。本を書くために本を読み続けた1年の締めくくりとして。


ここに1人の活字中毒者がいた。
富田倫生(とみたみちお)、享年61歳。今年の8月16日に逝去されている。
1952年4月20日生まれ。僕より一カ月遅く生まれた。まさにラスト・オキュパイド・チルドレンだった。しかも同じ早稲田の政経学部。つまり彼と僕はごく近い空間を彷徨っていた可能性がある。


寡聞にして富田さんのことは知らなかった。
僕もいつもお世話になっている「青空文庫」の主宰者にして、日本の電子出版の草分けのひとりだったのだ。
彼の書籍『本の未来』は、今、ボイジャーのサイトで無料ダウンロードできる。
この本は1997年3月1日に初版が出ている。
「青空文庫」の設立は同年の2月だった。
新しい本の話をしよう。
未来の本の夢を見よう。
ずいぶん長い間、私たちは本の未来について語らないできた。ヨハネス・グーテンベルグが印刷の技術をまとめたのが、十五世紀の半ば。だからもう、新しい本を語るのをやめて、五百年以上にもなる。
あの頃天の中心だった地球は、太陽系の第三惑星になり果てた。光の波動を伝えていたエーテルも、今はきれいさっぱり消え去った。それほど長い時が過ぎてなお、本は変わらなかった。
時間をかけて練り上げた考えや物語をおさめる、読みやすくて扱いやすい最良の器は、紙を束ねて作った冊子であり続けた。
けれど今こそ、本の未来について語るべき時だ。(P9)
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まえがきを読んだ瞬間から僕は富田ワールドに引き込まれた。僕は彼と同時代を生きた活字中毒者であるからだ。
ビートルズを聞きながらガリを切っていた田舎の高校生が東京に出て「政治の季節」の中を彷徨っていく。
そして、やむにやまれぬ書くことへの思いを貫き、紙の本を初めて出版すること。その過程で出版界のシステムに疑問を抱き、ごく初期の電子書籍アプリと出会って本の未来型を模索していく道中。
人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。(P51) 
自分の捉えた世界を物語って腹におさめることは、人の心にとって、息をすることや物を食べることのように欠かせないのだと書きました。そんな人という存在が、この試みの中で獲得し、見事に育て上げていった道具が言葉です。
言葉が秘める力に対する恐れと信頼は、コンピューターがどうの、マルチメディアがこうのといかにはやし立てられようと、私自身の中では毫も揺らぎません。(P169))
書くという行為の本質と言葉(Text)への信頼をこう喝破した富田さんは、その言葉を本にする時の二律背反にも気がついた。

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「本とは一体何であるのか」という問いに富田さんは答えを出している。
我々は体験したり聞き及んだりする出来事を、言葉によって物語ってはじめて胸におさめ、安心を得る生き物です。(中略)
人々の幅広い経験と知識を集め、そこから普遍的な物語の骨格を抽象化する人物は、理論家と呼ばれます。個別の体験や、イマジネーションの生みだした小世界を徹底して深く掘ることで物語ろうとする者は、文学者と呼ばれるでしょう。再現可能な手法で自然を腑分けし、その奥に潜む物語を暴き出そうとする者を、人は科学者と呼びます。(中略)
書物の本質は、言葉によって綴られるこの物語を、一まとめにしておさめておく器です。
(P251)
紙の本というのは長い歴史の中で洗練されてきた、とても素晴らしい器(コンテナ)だ。
しかし、本というコンテンツ(内容)は、いつまでも紙というコンテナに束縛されているわけにはいかない。未来の本はコンテンツが、よって立つコンテキスト(周辺情報)の更新も視野に入れる必要がある。

富田さんは電子書籍への道をひた走っていく。
マルチメディアへの取り組み。本の中にウエブサイトをリンクしていく試み。
そして彼は作家の死後50年以上たって著作権が切れた本を紙からフリーにした。
青空に浮かぶ雲に人類の財産は昇っていったのだ。

『本の未来』という独創的な本についてはまだまだ書き足りない。
ラスト・オキュパイド・チルドレンという文脈で読んでも興味はつきない一冊だ。

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僕も電通を脱藩以来、電子書籍を追いかけてきた。2011年4月にはこんなコンテキスト・ブリーフをつくっていた。


また、初めての「自炊」体験や311直後に感じた「電子書籍」の可能性を当研究所の文脈レポートでも書いてきている。

田中文脈研究所(『リストラなう!』を自炊なう)

田中文脈研究所(電子読書の快楽)

その後も僕はiPadとKindleで様々な電子書籍を購入し続けている。
本を読んで、その本を元にして何かを書く場合、電読アプリのメモやしおり機能ほど便利なものはないのだ。
紙の本をばっさり切ることに抵抗はなくなったが、本それ自体に書きこむことは未だに抵抗がある変な僕……。

そんな僕に富田倫生さんの存在を教えてくれたのは萩野正昭さんだった。
富田さんの盟友にして1992年に株式会社ボイジャーを立ち上げて以来、日本の電子書籍の紀元前を支えた男。
萩野さんのことは以前から知っていた。彼の著書はすぐに自炊してiPadに格納した。


ボイジャーの立ち上げた「理想書店」や「VoygerBooks」は僕のお気に入りだった。

2013年9月25日、富田倫生という人の追悼イベントがある、というお知らせがボイジャーから来る。
何気なくそのライブ中継を見た僕に萩野さんが語りかけてきた。
富田倫生の果たせなかった思いへの追悼スピーチ。僕の中の深い部分に富田さんの存在(あるいは不在と言った方がいいかもしれない)が焼き付けられた瞬間だ。


この時点での僕はまさか萩野さんと直接コンタクトをすることになろうとは思いもよらなかった。
ところが、不思議なもので、あることがきっかけになって萩野さんへの回路が開いてしまった。

それは僕の《自己幻想》である意固地で偏屈な考え方がきっかけだった。
ボイジャーの電子書籍アプリ(T-Time)が運用停止になり、BinBというブラウザベースの電読法に切り替わった時、僕はイチャモンをつけたのだ。

そのイチャモンに回答してきたメールの署名を見て僕は驚いた。
なんと御大、萩野正昭さんが直々にメールを返してくれたのだった。慌てて田中文脈研究所のレポートを含めて萩野さんにメールバックする。そのイチャモンと萩野さんの回答を詳細に書くと年を越してしまう(笑w)。

僕の電読はPCやマックでブラウザを使うことはなく、iPad、iPhone、Kindleを使って、場合によっては電読用の有料アプリを落とすことも可としている。
これは僕の特殊な考え方である。世の中にはブラウザで電読する方が便利だと思い、タブレット端末を持っていないし、有料アプリには抵抗感がある人も大勢いるはずだ。

萩野さんが長い間、試行錯誤したうえでたどり着いたBinBという方式を僕の偏屈な考え方だけに基づいてネガティブ発言をしてはいけない。
僕の《自己幻想》が常に正しいとは限らないのだ。

と僕は反省すると同時に、萩野さんが追悼イベントで着ていたTシャツが気になって仕方がなかった。

“Text: The Next Frontier”
言葉(テキスト)は次代の最前線である。

この印象的な言葉が印刷された黒いTシャツの由来を萩野さんに確かめようとしていた時、彼のFBに写真と由来が掲載された。今日、『本の未来』を読み直してみたら、P80にも、このTシャツのことが書かれていた。


時は1990年。アメリカのボイジャーがEXPAND BOOKS(拡張本)プロジェクトを開始した頃に作られたTシャツだったのだ。23年前の言葉が今、最前線で蘇っている。

僕がこの言葉に感動したのは訳がある。
ずっと電子書籍を追いかけてきた過程で、映像や音楽を組み込んだ電子本も購入してきた。
また電通のクリエーティブ部門で新しいことにトライしていた時、様々なマルチメディア的トライもしてきた。

だが2013年も終わろうとしている時点では「本は言葉だ」「テキストで物事の本質を伝えるのが本だ」という原点回帰の結論を出すしかない。

当たり前のことだと思われるかもしれないが、電子書籍の未来を考える時に「テキスト回帰」宣言をすることは重要だ。
萩野さんは映像をつくるお金がなかったので、テキストこそが最前線だと言ってしまったのだ、と笑っていたが。


コンテナが紙であれ電子の箱であれ、本のコンテンツはテキスト以外の何者でもない。
紙の場合は固定されたパッケージで、電子の場合はネットに繋げばテキストを取り巻くコンテキストまで届けることが可能だという違いはあるが。
考えてみれば「自炊」という行為はお気に入りのテキストを常に持ち歩くためでもある。

そのテキストの浸透力を映像や音楽で補完しようとするのは邪道だ、とコンテキスターとしての僕は思う。

善き言葉が本となり(紙であれ電子であれ)、時代を動かす言霊に昇華して最前線を巡っていくこと。
富田さんは、そんな思いを今、星に願っているのかもしれない。

そして半農半X研究所主任研究員の僕としては塩見直紀代表からいただいた言葉をお届けしたい。
「本とは、われわれの心の中の凍った海を打ち砕く斧でなければならない」(カフカ)


そろそろ僕は今年のテキストの持ち弾をすべて使い果たしたようだ。このあたりで終わりにしよう。後は『上山集楽物語』を自炊してiPadに格納したら仕事納めだ。

でもね、表紙カバーと帯の関係性が絶妙で表と裏の見返しまでデザインしたこの本の味を自炊で再現するのは無理なんですよね。


紙の本と電子書籍の絶妙な関係を模索していく僕の中での試行錯誤は来年も続くことだろう。

そのヒントになる朝日新聞の記事「地方発出版 電子化に活路」をシェア-して終わりにします。

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1年間、拙い文脈レポートを読んでいただきありがとうございました。
来年の大晦日こそは「そんな時代もあったねと」笑って話せる年になりますように。

皆さん、よいお年を!

2013年11月30日土曜日

Beatles For Contexter-ビートルズとコンテキスター

僕はビートルズで英語を覚えた。
初めてリアルタイムに聴いたビートルズは“ROCK AND ROLL MUSIC/ロック・アンド・ロール・ミュージック”。文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」というラジオ番組を必死でチューニングしていた中学2年生の僕、13歳。当時、香川県坂出市在住。

♪Just let me hear some of that rock and roll music~
この曲は今でも「♪とぅさみひざもら、ろっくんろーるみゅーじっく~」としか聞こえない。ビートルズの英語には独特の発音があった。

You got to はYou gotta、よーがった~。
I want toはI wanna、あいうぉな~
リバプールなまりの英語は僕にとって、今でもとても心地良い。

で、2013年11月11日。
「あいうぉな~みーちゅー、ぽーる!」ということで京セラドームに行ってきた。
ポールマッカトニー、「OUT THERE」コンサート。


1曲目は“EIGHT DAYS A WEEK/エイト・デイズ・ア・ウィーク”。
3曲目は “ALL MY LOVING/オール・マイ・ラヴィング”。

このあたりで、僕は1966年の女子高校生のように失神しそうになった。
ビートルズの最初で最後の日本公演は昭和41年。東京は武道館にて。
最初の曲は“PAPERBACK WRITER/ペイパーバック・ライター”だったことをよく覚えている。四国の中学生は白黒テレビにかじりついていたのだ。
当時の讃岐の青少年については「讃岐のデンデケデケデケ」をご参照ください。

今や「ひとりビートルズ」となったポールは唄い続ける。

“THE LONG AND WINDING ROAD/ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード”
山の神の実家である松江の野津旅館が改築されるときに「野津旅館の想い出」という映像をつくったことがある。そのバックに流したのが、この曲だった。

ビートルズの楽曲には、ほんとにお世話になった。公開しないプライベート映像を作るとき、僕はビートルズを使っていた。
電通を脱藩するときの卒業映像のキーミュージックは“IN MY LIFE/イン・マイ・ライフ”だった。このジョンの名曲をポールはコンサートでは歌わないが。

“AND I LOVE HER/アンド・アイ・ラブ・ハー”が聞こえてくる。甘酸っぱいものが込み上げてくる曲だ。このラブソングだけで短編小説が書ける。

そしてポールはギターを置いてキーボードの前に座り“LET IT BE/レット・イット・ビー”が始まる。

このコンサートはBGVも素晴らしい。サイケデリックなアニメーションや懐かしいPV風の映像つくりなど、耳だけでなく眼でも楽しむことができた。
この曲のときも、映像が浮かび上がってくる。
“♪LET IT BE~”のフレーズとともに映し出されたものを見て僕の涙腺はゆるみそうになった。
「天燈」すなわちスカイランタンがステージに浮かび上がったのだ。

この映像には見覚えがある。NPO法人英田上山棚田団の仲間たちが上山集楽の夏祭りで夜空に浮かべたのが、この天燈だった。
仲間のひとりがネット上で、今まさにステージ上で展開しているスカイランタンの映像を見つけてきたのがきっかけだった。
「あるがままに」ゆっくりと空に昇っていくスカイランタンの映像を見ながら、ポールの歌声を聞いていると、僕は本当に不思議な気分になった。

「OUT THERE」に行ったとき、僕は『上山集楽物語 限界集落を超えて―』(吉備人出版/12月下旬刊行予定)の校正作業中だった。その夏祭りの章には「天燈」が登場する。
英田上山棚田団出版プロジェクトチームの一員として没頭していたデスクワークから「外に出たかった」ので、コンサート前日にチケットを予約したのだ。

そのコンサートで「天燈」映像を見ると、『上山集楽物語』の登場人物たちの先見性がポールマッカトニーにも伝わっている気がしてきて感動を覚える。
ステージの写真では判別できないが、ここに確かに天燈が浮かんでいた。
仲間たちが2012年8月12日に上山集楽で上げたのと同じ天燈が……。



天燈を上げる棚田団
ポールマッカトニーは1942年6月18日生まれ。僕より10歳年上だ。
彼は相変わらず左手でギターを弾いていた。当たり前のことだが。
左利きのギターでジョージと同じマイクで唄うときのかっこよさは、田舎の青少年にも伝わった。


71歳のポールは唄い続ける。そのパワーは圧倒的だ。
僕は2010年に当時69歳だったボブディランのコンサートにも行ったことがあった。このおっさんは最低でしたね。観客は無視。自分だけの世界に陶酔しているようなコンサートだった。
ディランと較べるとポールのコンサートはインタラクティブだ。
もちろん、それは僕とビートルズの文脈が繋がっているので、余計に自分ゴトとしてポールの唄声が聞こえてくるせいかもしれないが。

コンテキスターと名乗っている身としては、もう少しポールを巡る文脈を書いておきたい。

ポールのコンサートには2002年にも行っている。
この時は山の神と一緒だった。仕事仲間からチケットをプレゼントされて嬉々として行ったことを覚えている。
DRIVING JAPAN 2002では“SHE'S LEAVING HOME/シーズ・リーヴィング・ホーム”が印象的だった。確かギター一本でやったのじゃなかったかな。

2002年から2013年、この11年の歳月は長い。ポールの唄声に関する限りは瞬間接着剤を使ったように時の流れがくっついているが。

2002年、僕は50歳。日本にもようやく「ブロードバンド」という言葉が浸透してきた時代。WEBクリエーティブをディレクションする、という訳のわからん仕事を任されたおかげで日進月歩の毎日だった。
犬のように働いて丸太のように眠るハードデイズナイト。
長男は20歳。アメリカの大学に留学していた。次男は17歳、メイは7歳。二人はずっと仲良しだった。
2013年も終わりに近づいた今、家族構成はずいぶん変わった。

一方、世の中のあり方はどんどん進化して、世界中に必要なラブはすべていきわたり、人々はあるがままに幸せに暮らせるようになったとさ。レットイットビー、レットイットビー……。

であればいいのだけど、残念ながら今現在、この国の政治情勢は退行して頓挫している。
黄金色のまどろみの中に逃げ込んで眼をつぶりたい気分だ。いつ物事は「ゲッティング・ベター」になっていくのだろうか。

と泣き言ばかりを言っていては子供たちに申し訳ない。文脈爺さんは、この愛おしい列島のコンテキストについて思いつくことを書き連ねて雲の上に遺しておこう。キーボードを叩く力が残っている限り。

2002年の総理大臣は変人宰相、小泉純一郎だった。彼はポールと同じ1942年生まれで現在71歳。
2013年のそれは……名前を書く気にもなれない。愚昧宰相のことを再び書くのは別の機会にしよう。

だが、僕たちはダウンしたわけではない。

政治のシーンでは退行頓挫しているが、草莽のフィールドでは新しい時代の胎動がしている。それは確かな脈動でもあり、リズミカルに列島を刺激し始めた。

2002年にはありえなかった動きが起こっている。脈動は永田町でも霞ヶ関でもなく、この国の中山間地からフェースブックを通じて発信され続けている。発信だけではなくアイデアは実践となって道を拓いているのだ。

ポールのコンサートの興奮が収まった後も、僕は『上山集楽物語』の校正を続けている。
2年前の年末に“上山集楽”という言葉が誕生した日の直後に僕は「上山集楽、山の上の雲人たち」という文脈レポートを書いていた。
その時点から始まった壮大で勇壮な物語を精緻に読みかえしてみると、上山集楽は“レボリューション”の方法論を常に模索し続けていることがよく分かる。

“REVOLUTION” ♪We all want to change the world~ 

上からではなく下から。タテではなくヨコに繋がって。町ではなく村から。
この列島の背骨として連なる中山間地から。

「僕たちはみんな世界を変えたいんだよ」と1968年にビートルズは唄った。
「ジュード、くよくよするのはおよしよ」という唄とカップリングされて。

もちろん、僕たちは政治の大情況から逃れることはできないし無視もできない。「あっしには関係ございません」という選挙行動が「子供たちの未来を担保できない」政権を生み出したのは間違いないのだから。しかしながら、政局を嘆いて誰かさんのせいにしていても世の中はシフトできない。

一人の変人が小さな火を点けて、二人目のへそ曲がりがやってきて燃えるものをくべる、三人目がそこに空気を送る。燎原の火はこのようにして広がっていくのだ。“上山集楽”の物語は読者が本の中に入って登場人物になるダイナミズムを持っている。


ビートルズは世界のポピュラーミュージックをシフトした。そしてポールマッカトニーはそのシフトの語り部となって、今なお世界中を唄い歩いている。

オデオンの赤いアナログレコードで育った世代は、今なおゴムのように弾む柔らかい心を持ち続けているだろうか。
「RUBBER SOUL/ラバー・ソウル」は僕の生涯ベストアルバムだ。久しぶりに紙ジャケットからLPを取り出して見たら、また甘酸っぱいものが浮かんできた。けれども感傷に浸るだけのじいちゃんには、まだなりたくない。


まだまだビートルズの名曲はある。じいちゃんの唄だってある。
“WHEN I'M SIXTY-FOUR/ホエン・アイム・シックスティー・フォー”
64歳になったら孫二人に囲まれて、まだ山の神にも愛されてワインを楽しむ幸せなじいちゃんの唄だ。

コンテキスター、フミメイは61歳で二人の孫を授かった。
歴史のターニングポイント、2011年に一人目。2013年11月25日に二人目。
今度は男の子だった。隆之亮(りゅうのすけ)と言うそうだ。

ポールは71歳になってもまだ“NEW”と唄う。
♪Then we were new~ そして僕らは生まれ変わった~

隆之亮は誰の生まれ変わりでもなく新しい命として外に出てきた。

OUT THERE!

願わくば、君が出てきた世界がメリーランドになっていきますように!


今月も長いエントリーを読んでくれてありがとうございました。感謝の気持ちを込めてほんの少し、ポールの唄声をお届けします。




トラブルはどこかに飛んでいってほしいね。


2013年10月31日木曜日

文脈日記(ブルネイ物語)

そのTシャツは何度見ても不思議な絵柄だ。昔の癖で海外に出るとなんとなくTシャツを買い求めてしまう。ブルネイ空港の小さなギフトショップでありふれた「I Love BRUNEI」シャツに囲まれていた一枚。


ABODE OF PEACE 平和の住居
BRUNEI ブルネイ
DARUSSALAM ダルッサラーム=平和の土地

「ブルネイ・ダルッサラーム」が正式な日本語表記の国では、「平和」とは「見ざる聞かざる言わざる」なのだろうか。
だとすれば、ブルネイを「見て聞いて言う(書く)」という行為は著しく平和を乱していくことになる可能性がある。
誰の平和?僕にとっては「言いたいことは書く」のが心の平穏を維持することだが。

長男との旅、第三弾はブルネイだった。これまでのスコットランドネパールと違って、ブルネイは僕にとって、まったく未知の国だった。いや、長男もそんなに深く考えて行き先を決めたのではなさそうだ。

「豊かな自然があること」という第一条件に加えて、「面白そうな路線の飛行機に乗ること」、さらには「美しい夕日が撮影できること」を旅の目的にした長男はブルネイを選択した。
杏奈ママの裏話によると、わずか15分で目的地を決めたそうだ。その間に杏奈は「ぶるねいぶるねい」とつぶやく幼子になった。

国名の中に「サラーム」という言葉がついていることからも分かるように、ここはイスラムの国だ。
イスラムの国に行くのは、初めてだから面白そうだな、でも、飯のときに酒を飲めないのは、少々、困る。
まっ、わずか3泊だからいいかな。ふむふむ、旅行者のアルコール持ち込みはOKなのか。
父は例によってリサーチを始める。またしても『地球の歩き方』にも情報が少ない旅の目的地だ。正直に言ってそれほど「ブルネイ」に乗ってはいなかった。まっ、いいか、という程度だったのが、結果的には、例によってとても興味深い旅になった。

ブルネイ。
ボルネオ島の一部に三重県ほどの国土を持つ小国。石油と天然ガスが多く埋蔵されていて大富豪の王族が暮らす国。敬虔で穏やかな国民性。
そしてTPP交渉会合が8月の終わりに開催されて、日本のメディアが押し寄せた国。


旅程は9月11日から16日まで。4泊6日。去年のハワイ行きと同じく今年も911に出国する。
関空からクアラルンプールに飛んで1泊。そこからLCC(ロー・コスト・キャリア)のエアーアジアでブルネイの首都、バンダルスリブガワンまで2時間半。ブルネイに3泊してまたクアラルンプールへ。夜行便で帰国。わずかこれだけの旅だ。

クアラルンプールは典型的なアジアの町のように見える。一応、町の真ん中のホテルに泊まって空気感を確かめただけなので書くべきことはほとんどない。
だが、文脈家としてはマレー半島で生まれたはずの多くの物語に思いを馳せておく必要はあるだろう。
LOC(ラスト・オキュパイド・チルドレン)としては「快傑ハリマオ」なんですがね。誰も分かりませんよね。


旅の目的は食うことにもある。第一夜の飯はホテルのすぐそばにあったベトナム料理。
いや、そこにうまそうなベトナム料理屋「サオ・ナム」があったから、ホテルを決めたというのが正解かもしれない。

これはうまかった。もちろん、ビールもワインもうまい。明日から飲めないと思ったらとてもうまい。
生春巻き、揚げ春巻き。あまりにうまそうで、写真を撮るのも忘れて食い始めた。


このレストランのトイレにはどこかで見たことがある写真が飾ってあった。
やぎひげのじいさん、二重眼鏡。これはホーおじさんではないか。ホーチミン、ベトナム戦争の覇者。この写真のことを読んだか見たのは開高健の著作だったか。


おっと、このあたりの文脈はまた別の物語だ。寄り道をせずにタイガービールとスコッチを持ってエアーアジアに搭乗しよう。


ぶるねい、ぶるねい、ここがブルネイ。
アルコール持ち込み申請をする息子の背中にはTUMIのバックパック。
父が21世紀の初めにラスベガスで買って、テキサスに留学する息子に贈ったものだ。あれからこのバックパックは何カ国を旅したのだろうか。


ブルネイはASEAN(東南アジア諸国連合)の加盟国だ。僕たちの旅の一カ月後には安倍総理夫妻もアセアンの首脳会議に出席するため、この国を訪問している。
そのテレビ報道を見ているとバックに見慣れたモスクが映り、現地時間夕刻のコーランが流れていた。

その既視感はすごかった。なにしろブルネイにいた3日間、毎晩、僕たちはこのモスクの撮影をしていたのだから。うちのカメラ小僧は割としつこい、いや、丁寧に撮影をする。
父は「ちゃっちゃっと素早く」が心情の撮影で三脚などというものは使わない。ゆえにレベルの取れていない写真が多い。全般的に右肩上がりの写真が多いので、よしとしよう。

鮮烈、荘厳、朗詠。フレームに収まりきらないモスク。ここはもちろん現役である。朱に染まったライティングの中で町中にコーランを響かせる拠点なのだ。


美しい映りを求めて雨の中でも三脚を立てる息子。
撮影終了を待つ父は住民と戯れる。


バンダルスリブガワンは狭い町だ。そして水の町だ。水上タクシーが夜でも行き交う。
対岸の水上集落が見渡せるレストランでは2回、ディナーをした。タイ料理とイタリアン。
味は最高。お相手はペリエ。


夜はモスクの撮影。朝は市場探索。この旅はシンプルでいい。
市場があれば国家はいらない、と見切ったのは藤原新也だったと思う。
絶対君主制のブルネイでも市場は市場だ。
キアンゲ市場を見たら、この町の飯がなぜうまいのかがよく分かる。
野菜、野菜、野菜、魚、魚、魚。


人々の雰囲気は全体的におっとりした感じがする。やっぱり「金持ち喧嘩せず」なのだろうか。

市場にはあらゆる食材が流通していたが、ロイヤル・レガリア(王室史料館)では石油を売っていた。これは比喩ではない。ギフトショップというものにほとんど興味はないが、これには驚いた。


化石燃料に支えられた豊穣。
宿泊したブルネイ・ホテルの窓からは市場がよく見える。


さて「豊かな自然があること」だった。
なにしろボルネオ島なのだから。熱帯雨林なのだから。

この国のアウトドア・アクティビティのビークルはロングボートだ。強力な船外機を装備してぶっとばして行く。ブルネイ名物、水上集落への足はこれしかない。
この堅牢にして簡潔な乗り物でマングローブの川を遡り、テングザルを見に行くのが「おのぼりさん」の定番コースだ。


「金持ち」の割に、このおっさんの客引きは強引だった。旅の交渉ごとは息子に任せるのだが、根負けしたようだ。
商売上手にしてスピード狂のおっさんのボートに乗った親子はこんがりと焼かれていく。なにしろ南洋の直射の下で2時間半、すっ飛ばしたのだ。


これは13日の金曜日の午前中のこと。敬虔なイスラム教徒は金曜日の正午から2時までは祈りを捧げるはずだった。
僕たちはおっさんの信仰の邪魔をしないように早帰りを希望したのに……。

「こちとらはお客さん優先だぜい!」
サービス精神と金儲け精神が正比例しているのだ。カメラワークもお手のものだ。
テングザルだってクロコダイルだっておっさんの手の内である。


おっさんは水上集落の住人らしい。彼の自慢は集落に学校が11もあることだ。
教育の充実はブルネイ国民全体の誇りのようだ。


「どうでえ、客人、次は海を見たくねえか?」
おっさんは、普通の観光コースが終わっても港に帰ろうとはしない。
南シナ海か、それもよかろう。すっかり南洋の旦那気分になった親子は(心の中で)扇子をとりだしてパタパタしながらうなずいた。船頭に帰る気がないのだから行くしかない。
かくして、水上ペトロステーションでガスを満タンにしたおっさんは海を目指す。


気分は爽快だった。おっさんの気分も平和なものだったろう。
祈りよりもキャッシュを優先する敬虔なブルネイ国民も存在するという当たり前の事実も確認できたし。
ただ、暑かった。屋形船ならよかったのに。帰国してからも親子を悩ませたおでこと手足の皮むけ現象は、この日に起因するのだ。


次の日、9月14日も「自然の中へ」だった。
熱帯雨林への日帰りツアー。ウル・テンブロン国立公園には乗り合い船で川を1時間。そこから陸路を30分ほど走ったところにベースがある。


ツアーのオプションはふたつ。熱帯雨林を見下ろすまで歩道を上がるキャノピー・ウォークかジャングル・トレッキング(川通しあり)。足には自信がある(?)親子だったが、後者を選ぶ。

結果的には正解。いかつい山男と素敵な山ガールが先導する林道は快適だ。途中、薬草のお勉強などしながら長閑に歩く。間違いなく熱帯雨林にいるのだが、気分は箕面のお山だった。


この山男、ごっつい山刀に似合わず、シャイで優しい奴だった。
小さくて可愛い石を見つけては僕にプレゼントしてくれるのですね。仕方がないので適当にレイアウトして写真を撮っていると、次から次へとね。
ここは石の王国か、とつぶやいてしまった。


そして川。日本型渓流と透明度は較べようもないが、やはり川のそばにいると癒やされる。まさかブルネイまで来て川通しができるとは思わなかった。
平和だ、とても平和だ。
山ガールと息子は石投げに興じる。僕は熱帯雨林のXフォトを撮影していく。


こうして豊かな自然の中の2日間が終わった。


熱帯雨林ツアーに出発する朝、ボルネオガイド社のアリヒ青年と話してみた。
乗り合いボートが来るまでの短い時間に、彼は「ヒズ・マジェスティ」、すなわち国王(スルタン)について熱く語ってくれた。どうやらこの国の住民は最高権力者が大好きなようだ。


アリヒは言う。
国民がスルタンを支え、スルタンが国民を支える。
僕たちはみんなヒズ・マジェステイが大好きだ。
スルタンは石油から産み出された富を国民のために配分してくれる。
医療、教育、奨学金……。
彼はスマートでアクティブだ。
ポロが大好きで二千頭の馬を持っている。
とてもフレンドリーで国民とともにレガッタレースに出場する。
飛行機を操縦する。ヘリコプターも大好きだ。
僕は王宮に入ったことがある。とても感激した。
なんだか羨ましくなった。
僕は単なる通りすがりの者だ。スルタンの人柄も分からないし、あのロングボートのおっさんがどんなスルタン観を持っているのかも判断しかねる。
それでも、アリヒ青年のストレートな思いは気持ちがいいものだった。

ひるがえって日本列島のことを考えたらなおさらである。
「民意」で選ばれた総理と世襲制の国王を比較してしまう。国王は民に尊敬され信頼されている。
青年の話を聞いてから一カ月後にブルネイを訪れた日本国総理はどうだろうか。
まあ、僕は列島の「圧倒的少数派」らしいので、この件にはこれ以上、深入りしないようにしよう。

平和が住まいたまうところの国王は国民に「見ざる聞かざる言わざる」を強いることはないはずだ。
熱帯雨林ツアーがあんなに平和だったのも、山男と山ガールの家に飾ってあった国王とその夫人のおかげなのかもしれない。


ハナサル・ボルキア国王兼首相。1946年7月15日生。67歳。
アリヒ青年の話を聞いて町中にあふれていた「67」という数字の意味が分かった。

「明日はヒズ・マジェスティの誕生日セレモニーです。ブルネイを発つ前に見に行ってください」という彼のお薦めにしたがって、9月15日はイベント見学。

ところで、このエントリーを書くためにいろいろ調べていて気がついたのだが、国王の誕生日は7月15日。それではなぜ2カ月遅れでセレモニーをしていたのだろうか。いまだにこれは謎である。

それはともかく。見に行って驚いたのは国王との距離の近さだ。
見物人のすぐそばを国王が通過していく。別に機動隊もいない。
ど派手なイベントで最後はジェット機とヘリコがカラフルな煙を吐いていった。


ブルネイの平和物語をお裾分けしてもらった親子は、物語が錯綜している列島に帰る。
ガソリンがリッター42円の国から158円の国に帰る。

ブルネイの穏やかな物語がフィクションなのか、ノンフィクションなのか、それはわずか3泊4日の滞在では分かりようがない。

ただ、僕たちひとりひとりに固有の物語があるように、国にもそれぞれの物語があるはずだ。旅に出て見て聞いた物語は帰りの空港で飲む一杯のワインで忘れることはない。


息子の背中を追いかけて、次のページを開いていく旅を僕はいつまで続けることができるのだろうか。願わくば、ネバーエンディングストーリーになってほしいのだが、そうもいかないだろうな。


できれば孫たちに、ひたすら楽しい旅物語を語り継ぎたいのだが……。