小豆島新聞 2010年1月20日掲載 双葉要
2009年6月、この列島にオタマジャクシが空から降ってきた。原因はまだ解明されていない。村上春樹の「海辺のカフカ」という小説にも同じような不条理なシーンがあったと日経新聞のコラムでも伝えられた。この事件がきっかけで、「海辺のカフカ」を再読した。小説の中でイワシとアジが2000匹、空から降り注いだのは、東京都中野区だ。
それはそれとして、この小説は、讃岐が舞台の「ひとつ」になっている。「ひとつ」というのは、春樹ワールドの常として、多重構造の世界観が複雑に絡み合っていくからだ。
主人公は田村カフカという15歳の少年だ。彼は夜行バスで東京から瀬戸大橋を渡って、高松までやってくる。そして、「讃岐のカフカ」になる。
カフカ少年の他にカラスと呼ばれる少年、ナカタさん、星野青年は、それぞれの「損なわれた部分」を回復するために、高松に集結してくる。父を殺し、母と姉と交わることになるカフカ少年は、讃岐で、「損なわれた部分」を回復するために、不思議な経験を積み重ねていく。
といっても、村上春樹を読んだことがない人には、想像を絶する話だと思う。元祖、フランツ・カフカは、チェコの小説家だ。ある朝、目が覚めると、虫に「変身」した男の話が代表作だ。
村上春樹が、少年に「カフカ」という名前を与えたのは、もちろんフランツ・カフカの存在があったのだろう。カフカという固有名詞には、常に不条理のニュアンスがつきまとう。ちなみに、カフカというのはチェコ語でカラスのことらしい。
では、なぜこの小説の舞台が「讃岐」だったのか。なぜ「阿波のカフカ」でも「伊予のカフカ」でもなく、「讃岐のカフカ」だったのか。あらためて語感を確かめていると、これはもう、「讃岐のカフカ」しかないという気がしてくる。不条理な物語のバック・グラウンドとして、寒くもなく暑くもなく、温暖平穏、可もなく不可もない讃岐の風土はある種の落ち着きを与えてくれるからだ。
村上春樹はこの小説の前に「辺境・近境」というエッセー集の中で讃岐うどんのルポをしたためている。裏の畑で、自分で葱をとってくる「中村うどん」をはじめとする超ディープなうどん屋の話だ。その取材時に、うどんでお腹をいっぱいにしながら、カフカの舞台設定を考えたのだろうか。
それにしても、讃岐の中でもなぜ高松なのか。高松にはこの哲学的官能小説をメタフォリカルにサポートする資格があるのだろうか。
舞台の中心は、高松にあると設定された「甲村記念図書館」である。田村カフカくんと図書館職員たちとの間で展開される隠喩に満ちた会話を支える空間だ。その静謐で知的なたたずまいは、リアリティを持って描写されている。
讃岐平野のうどん行脚とは、かけ離れたイメージの図書館にモデルはあるのか、という疑問には、村上春樹自身が「少年カフカ」という本の中で答えている。
「甲村記念図書館はもちろん実在します。というのは嘘です。実在しません。僕が勝手にこしらえたものです。すみません。なにしろ勝手にこしらえるのが好きなもので」
それでも、ネット上では、春樹ファンがモデルを求めて、さまざまな見解を展開している。そのモデルのひとつとして、坂出の鎌田共済会郷土博物館が挙げられている。坂出出身の僕としては、カマタといえば、醤油の香りである。不条理な会話が交わされる建物のモデルとは少し違う気がする。
僕は、高松空港のそばにある「漫画図書館」の建物を見たときに、甲村記念図書館をイメージしてしまったことがある。なぜ、自分がそんなことを思ったのか、高松空港に行く機会があれば再確認してみよう。
「海辺のカフカ」は、「讃岐のカフカ」になることによって、讃岐人の想像力をかきたてる。考えてみれば、この小説の中でイワシやアジが空から降ってくるシーンも、なんとなく瀬戸内海っぽいイメージがある。このイワシがカタクチイワシであれば、大量のイリコダシの原料になって、讃岐うどんに貢献したのに、とまた勝手なことを思うのも「讃岐のカフカ」の楽しみであろう。
何を隠そう、僕は村上春樹の偏愛者である。まだ「海辺のカフカ」を読んでいない讃岐人には、ぜひご一読をお勧めしたい。
2009年6月、この列島にオタマジャクシが空から降ってきた。原因はまだ解明されていない。村上春樹の「海辺のカフカ」という小説にも同じような不条理なシーンがあったと日経新聞のコラムでも伝えられた。この事件がきっかけで、「海辺のカフカ」を再読した。小説の中でイワシとアジが2000匹、空から降り注いだのは、東京都中野区だ。
それはそれとして、この小説は、讃岐が舞台の「ひとつ」になっている。「ひとつ」というのは、春樹ワールドの常として、多重構造の世界観が複雑に絡み合っていくからだ。
主人公は田村カフカという15歳の少年だ。彼は夜行バスで東京から瀬戸大橋を渡って、高松までやってくる。そして、「讃岐のカフカ」になる。
カフカ少年の他にカラスと呼ばれる少年、ナカタさん、星野青年は、それぞれの「損なわれた部分」を回復するために、高松に集結してくる。父を殺し、母と姉と交わることになるカフカ少年は、讃岐で、「損なわれた部分」を回復するために、不思議な経験を積み重ねていく。
といっても、村上春樹を読んだことがない人には、想像を絶する話だと思う。元祖、フランツ・カフカは、チェコの小説家だ。ある朝、目が覚めると、虫に「変身」した男の話が代表作だ。
村上春樹が、少年に「カフカ」という名前を与えたのは、もちろんフランツ・カフカの存在があったのだろう。カフカという固有名詞には、常に不条理のニュアンスがつきまとう。ちなみに、カフカというのはチェコ語でカラスのことらしい。
では、なぜこの小説の舞台が「讃岐」だったのか。なぜ「阿波のカフカ」でも「伊予のカフカ」でもなく、「讃岐のカフカ」だったのか。あらためて語感を確かめていると、これはもう、「讃岐のカフカ」しかないという気がしてくる。不条理な物語のバック・グラウンドとして、寒くもなく暑くもなく、温暖平穏、可もなく不可もない讃岐の風土はある種の落ち着きを与えてくれるからだ。
村上春樹はこの小説の前に「辺境・近境」というエッセー集の中で讃岐うどんのルポをしたためている。裏の畑で、自分で葱をとってくる「中村うどん」をはじめとする超ディープなうどん屋の話だ。その取材時に、うどんでお腹をいっぱいにしながら、カフカの舞台設定を考えたのだろうか。
それにしても、讃岐の中でもなぜ高松なのか。高松にはこの哲学的官能小説をメタフォリカルにサポートする資格があるのだろうか。
舞台の中心は、高松にあると設定された「甲村記念図書館」である。田村カフカくんと図書館職員たちとの間で展開される隠喩に満ちた会話を支える空間だ。その静謐で知的なたたずまいは、リアリティを持って描写されている。
讃岐平野のうどん行脚とは、かけ離れたイメージの図書館にモデルはあるのか、という疑問には、村上春樹自身が「少年カフカ」という本の中で答えている。
「甲村記念図書館はもちろん実在します。というのは嘘です。実在しません。僕が勝手にこしらえたものです。すみません。なにしろ勝手にこしらえるのが好きなもので」
それでも、ネット上では、春樹ファンがモデルを求めて、さまざまな見解を展開している。そのモデルのひとつとして、坂出の鎌田共済会郷土博物館が挙げられている。坂出出身の僕としては、カマタといえば、醤油の香りである。不条理な会話が交わされる建物のモデルとは少し違う気がする。
僕は、高松空港のそばにある「漫画図書館」の建物を見たときに、甲村記念図書館をイメージしてしまったことがある。なぜ、自分がそんなことを思ったのか、高松空港に行く機会があれば再確認してみよう。
「海辺のカフカ」は、「讃岐のカフカ」になることによって、讃岐人の想像力をかきたてる。考えてみれば、この小説の中でイワシやアジが空から降ってくるシーンも、なんとなく瀬戸内海っぽいイメージがある。このイワシがカタクチイワシであれば、大量のイリコダシの原料になって、讃岐うどんに貢献したのに、とまた勝手なことを思うのも「讃岐のカフカ」の楽しみであろう。
何を隠そう、僕は村上春樹の偏愛者である。まだ「海辺のカフカ」を読んでいない讃岐人には、ぜひご一読をお勧めしたい。
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