2011年9月9日金曜日

文脈日記(ガリをキル)

ジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」を見た。

始まって間もない時に「ガリをキル」という台詞が出てきた。
不覚にもすぐに意味を理解できなかった。
僕の中に出てきたイメージは寿司屋のガリだった。なぜ、このシーンで
生姜を切らなければならないのかと、虚をつかれた。
そして次の瞬間、理解してあの懐かしいロウの匂いとガリの手応えが蘇ってきた。

それから先はもう駄目だった。
何でもないシーンで涙が流れてくる。


 ラスト・オキュパイド・チルドレンはこの種の映画に極端に弱いのだ。

僕は1952年の3月生まれだ。日本はこの年の4月28日までアメリカの占領国だった。
僕たちは最後の占領された子供たちなのだ。

盟友ボブがLOC(Last Occupied Children)、ロックとネーミングしてくれたこのテーマは田中文脈研究所の重要な研究課題だ。
僕たちは世代というコンテキストからは逃れられない。

この映画は1963年が舞台だ。LOC、団塊世代からさらに遡った敗戦直後に生まれた世代たちが主人公になっている。

「ガリをキル」話は、この映画においてはサブアイテムだ。
だが、コンテキスターとしてはガリ版印刷の文脈から、この映画を語ってみたい。
 ガリは僕たちの素敵なマイクロ・メディアだった。
団塊とLOCたちなら、必ず接触しているはずだ。

ガリ版印刷は1894年に堀井新次郎という人がエジソンの発明を換骨奪胎してつくりあげたらしい。近代日本の土くさい発明品のひとつだ。
このあたりのことは、津野梅太郎「小さなメディアの必要/ガリ版の話」からの受け売りだ。
この本は理想書店で電子書籍が無料で手に入る。




ガリをキル、とはロウの原紙を鉄板の上において、その上から鉄筆でがりがりと文字を刻んでいく作業だ。
できあがったガリはローラーで根気よく一枚ずつ印刷していく。コピーマシンというものが存在しない時代ではガリは唯一無二の印刷物メディアだった。

少女は少年のためにガリをキル。
少年は少女のためにガリをローラーでこする。
ガリ版刷りのビラは二人の思いをのせて空に舞う。

ちょっと相当、恥ずかしい描写をしてしまったが、この時代のコミュニケーション・デザインはシンプルだった。

さらに僕の涙腺を刺激したのは、このガリをキル現場だった。
「コクリコ坂」の町にある高校。その高校のカルチェ・ラタンと呼ばれる古い校舎。
文化部の男子学生たちの魔窟であり、取り壊しの危機が迫っている。
ガリ版という小さなメディアは、この建物の中で粛々と生産されていた。


僕の高校にもカルチェ・ラタンはあった。
香川県立丸亀高校記念館。1968年、ぎしぎしと鳴る廊下の上には混沌があった。

海と俊の高校と同じく、丸高の記念館にも文化部の部室がひしめいていた。
新聞部があり文芸部がありESSがあり、生徒会があった。
そして、僕らの「赤い応援団」があった。


この田中文脈研究所を主宰してから1年2ヶ月になるが、この間、いちばんアクセスが多いのが「丸亀高校」というエントリーだ。

映画「コクリコ坂から」は、7年の世代差を乗り越えて、もろに僕の丸高時代とシンクロしている。

「カルチェ・ラタン」という言葉も、その文脈を繋いでいる。
1968年、「神田カルチェ・ラタン闘争」の興奮を田舎の高校生である僕は、東京に行った先輩からの手紙で読んでいた。
また丸高記念館も1959年には取り壊しの話が出ていたらしいが、先輩諸氏の努力で部室として存続したとか。ここも映画と同じストーリーだ。

今年の正月に僕は丸亀で同窓会に出席した。卒業して41年間で2度目の同窓会出席だった。

現在の丸高の校長は僕たちの同窓生だったらしい。
彼の計らいで卒業以来、はじめて丸高の校内に入った。校舎は建て直すらしいが、丸亀高校記念館は健在だった。
ばかものたちの夢の跡は国の登録文化財になっており、当時よりもこぎれいになって僕たちを迎えてくれた。

さすがにガリ版印刷の機材は見当たらなかったが。


今、僕は小豆島フミメイ庵の再生を図っている。
取り残された大量の荷物の中に、僕の高校生時代の遺物もあった。

そこには、1968年の丸亀高校生徒会や文芸部のガリ版印刷物が現存しているのですね。
はてさて、これらをどうしたものか。文脈家の悩みはつきない。

来週は丸高同窓会番外編@札幌、そして早稲田大学の先輩にして団塊世代の代表、ふるさと回帰支援センターの専務理事、高橋公さんと会う。

そろそろ僕の関係と信頼を巡る冒険にラスト・オキュパイド・チルドレンの文脈研究をプラスしていく時期が来たようだ。

時は今だ。

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