2010年7月19日月曜日

文脈日記(家族史)

どうもまだ脱藩生活のリズムが掴めない。自分のすべてを自分で律すること、すなわち《自律の自立》には時間が必要だ。他律生活はそれなりに楽だったのだ。

と弱音を吐いても仕方がない。僕はこの道を選んだのだから。時間がない、忙しいと今までと同じ言い訳をするのはやめよう。時間はあるのだ。使い方が下手なだけだ。

このブログも早く更新せねば、と気持ちばかりが焦る。他人の情報を発信するお手伝いはいやというほどやってきたのだが、自分の情報発信は難しい。判断基準が自分しかないからだ。世の中と自分との間合いを図るのに、もう少し時間が掛かりそうだ。

なにしろ駆け出しブロガーですので、多少のもたつきはご容赦ください。

そんなわけで、文脈研究所、文研の更新はぼちぼちとやっていきます。自分の中では文脈があふれていても、それを世の中にそのまま出したのでは単なるオーバーフローだ。

こういうときは、また原田ボブ先達に頼るしかない。

自分の内なる声の指示に従えばよろしい。

そのとおりだと思う。自分の中でざらつきを感じること、違和感を感じることはしない、これが《自立》の判断基準、その1なのだろう。

そんなことを考えつつも、早く文研のカテゴリー・エントリーはしていきたい。一部の皆様にお配りした僕のミッションシートには、コンテキスターとしてのカテゴリーを並べてある。そのカテゴリーを織りなす作業を始めたい。

そのカテゴリーのひとつに「家族史」がある。自分史ではない。そして自分の家族の特別化でもない。複数の家族が織りなすコンテキストの中で見えてくるものを文脈化してみたい。

ミトコンドリア・イブやルーシーにまで遡るつもりはない。しかし我々は「遠くから来て遠くまで行く」のはまちがいない。

「遠くまで行くんだ」という言葉がずっと気になっていた。1970年頃、とある雑誌のタイトルで見た覚えがあり、ずっと心の片隅に残っていた。この言葉に関して調べてみたのは、長男の結婚式でのスピーチを考えていたときだ。いわゆる「両家を代表しての挨拶」というやつですね。

複数のブログを参考にさせていただいているうちに、「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」という台詞が白戸三平「忍者武芸帳」ラストシーンにあったことを思い出した。ブログなど影も形もなかった昔に読んだことがある。影丸のラストメッセージだったのだ。

この言葉のオリジナルはイタリア共産党の創始者、パルミロ・トリアッティだそうだ。きっとファシズムに対抗した人なのであろう。この人の言霊が僕の中で生き続けていたのだ。

「遠くまで行くんだ」という言葉が持つセンチメンタリズムに共感した僕は結婚式のラスト・スピーチをこの言葉をモチーフにして組み立てた。ただし、政治的な文脈でこの言葉を使うのは嫌だったので、ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」をBGMにしてしゃべってみた。

以下、そのサマリーです。

彼らが出会った瞬間から、二人は私たちのボーイとガールであることを卒業しました。正直、少し、というか、かなり淋しい気持ちがしますが、彼らの前には新しい道ができました。それは、単に私たちの息子と娘が出会ったということだけにはとどまりません。彼ら二人は遠くから来ました。両家の家族は遠くからの道を歩んできました。それから、生まれてから今日まで、たくさんの人に支えられながら歩いてきた道があります。彼らが出会ったとき、それら別々の道がクロスして、その瞬間、新しい道ができました。私たちの息子と娘は、遠くから来て遠くまで行きます。

おかげさまでスピーチはうまくいった。でも、一回限りのスピーチで家族史は語れない。あたりまえだが。

遠くまで行くのは、息子と娘たちの自己責任だ。ただし遠くから来たことを記録しておくのは、僕の役割だ。家族史は、田中家と妻の親戚関係から始めたい。それは満州へと繋がっていく。

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