2015年12月30日水曜日

山の陰に通いつづけた

山の陰に通いつづけた一年だった。そこにはXがあった。
Xは未知数、綾なす志。
Xはクロス。人と自然の関係性。そして、自分と他者との、自分と自分との関係性。
山の陰の雲は次々にわいてくる。雲が厚いほど降りてくるビームは美しい。
そのビームは国つ神の梯子だと僕は思う。


「私は山の陰で生まれた」というのが宇沢弘文さんの自己紹介だった。
山陰は鳥取県米子市出身の世界的経済学者、宇沢弘文さんは「人びとを幸福にできる経済学」を追求した。


「経済学の原点は人間。人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね」
社会を本当によくするために何が必要か?
と思索し行動した宇沢さんの原点は山の陰にあった。

山陰の光と陰。山と海。霊峰大山から奥出雲に繋がる山脈。白兎海岸から弓ヶ浜に至る水脈は中海と宍道湖にも通じている。そこには山のように深く、海のように豊穣な文脈があった。

2015年、僕が山陰で出会った文脈は多種多様である。コンテキスター(文脈家)冥利につきる。

米子で宇沢弘文記念フォーラムに参加したのは10月4日。自分で自分のFB投稿を引用しておく。

「宇沢弘文記念フォーラム」は素晴らしかった。米子市民の手作りイベントが共感を呼んで、多くの参加者を集める。コンテキスターである僕は、本格的に宇沢文脈を研究したくなってきた。占部まりさんが提供してくれた宇沢押印をもらったことだし。
宇沢弘文は「愛と正義」の経済学者。ロングスパンで歴史を見つめた提言者。
「社会的共通資本の確保には、100年かかるかもしれないけど、父はそれが実現した時、世界の平和が実現すると思っていました」と、長女、占部まりさん。
日本で、もっともノーベル賞に近かった経済学者は、破天荒なやり方で家族を愛し愛された夫であり父だった。
まりさんは「母がいなかったら、今の父はなかった!」と断言する。
宇沢先生の奥様、ヒロコさんは、スーパー山の神であったようだ。 

年の初めに『国つ神と半農半X』という企画書をたてて、僕は山陰取材を続けてきた。そこで見て聴いたことを書いてきた。
しかしながら、書き残したことも多い。年の瀬の今となっては、鬼に笑われようが山の神に叱られようが、来年の話にするしかない。

ともかく書けていない文脈レポートが多すぎる。2010年7月に当研究所を立ち上げて以来、初めて年間12本以上書く!という自分への責任を果たすことができなかった。

その原因は「動きすぎ」にある。1年間のスケジュールを振り返るだけで体力を消耗しそうだ。フミメイ号は2万4千キロを走破している。
インプット過剰でアウトプットが間に合わない一年間であった。自分の動きに情報発信力が追いつけない。

2015年の山陰取材は11回である。
その間に坂出、小豆島のレギュラー移動、家族の文脈での佐賀訪問。善通寺田んぼでの米つくり。ほんの少しの鮎釣り。長男一家との石垣島旅行。
そして、あちらこちら。年末には天つ神ベースの伊勢神宮にまで参拝した。


さらには、地元箕面での自産自消あるいは自賛自笑活動など。


ただし、東京には一度しか行っていない。7月4日の電子出版EXPO。日本の電子出版のさきがけボイジャーの公開セミナーでプレゼンテーションをした。実はこれもでかい文脈なのだ。


そうそう、「満州国」を舞台にした家族小説『消えた街』を自費出版したのも今年だった。
3月26日、主人公、白川妙子のモデルとなった女性の103歳の誕生日にあわせて103部発行した。


さらに、紙本に長いあとがきを書き足してボイジャーから電子出版したのが、7月1日。それがきっかけで萩野正昭さんからのお誘いを受け、電子出版と『消えた街』について思うところを〝定年からのデジタル〟というセミナーでしゃべることになったのだ。



ボイジャーのセミナーで聴いた片岡義男さんの言葉も印象的だった。そもそも、このレポートのタイトルがセンテンスになっているのも片岡さんへのオマージュなのだ。


自身の全著作をデジタル化する目的について片岡義男さんはこう言った。
「過去が大切だと分かったからデジタルを使う。アーカイブは過去そのもの。過去にはアクセスしたほうがいい」


僕は自分のプレゼンでも「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる」という有名な言葉を引用した。


このプレゼンはボイジャーのアーカイブ映像になっています。見てください。タイトルは「フローなデジにしてくれ」。(クリック!フミメイパートは13分から30分)
片岡義男さんの小説『スローなブギにしてくれ』を踏まえて、今年のボイジャーのコンセプトは「スローなデジにしてくれ」となっていた。僕はそれをさらに派生させてみた。


デジタルという便利な道具を使って、過去にアクセスし、この国の近現代史を正しく学ぶこと。
戦後70年の年に、そのことは大きな意味を持っている。

ところが、ここに過去を大切にしない「最高責任者」(自称)がいる。安倍晋三だ。
12月28日にも「子や孫の世代に謝罪しつづける宿命を背負わせるわけにはいかない」とのたまわっている。この人は相変わらず、歴史を修正したいのだろう。

僕の安倍晋三批判は今に始まったことではない。思えば3年前の12月26日に彼が第96代の内閣総理大臣になってから、一貫して続けている。

加齢による物忘れはあっても、コンテキスターは文脈を忘れない。

2015年は安倍晋三の反知性主義者としての本領がいかんなく発揮された年でもあった。
数々の愚昧発言を繰り返してくれたが、ひとつだけ引用しておこう。

「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(7月15日、衆院特別委員会で)。

反知性主義というのは定義が難しい言葉だが、ここでは一般的定義を提示したい。
「反知性的な態度とは、実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度、『自分に都合のよい物語』の中に閉じこもる(あるいはそこで開きなおる)姿勢……」
(『日本の反知正主義』(晶文社/P133)

それでも安倍晋三に感謝したいこともある。彼のおかげでSEALDsが出現したことだ。

Students Emergency Action for Liberal Democracy-s
「自由と民主主義のための学生緊急行動」は、この夏、僕に希望の文脈を与えてくれた。


はじめてSEALDsの現場に行ったのは8月14日、京都駅前の街宣だった。
その時間帯に、安倍晋三は主語のない戦後70年談話を垂れ流した。
僕はSEALDs Kansaiの塩田潤さんのスピーチを聴く。
総理大臣の空疎な言葉に対するアンチテーゼであった。その日のFB投稿は以下だ。
SEALDs Kansaiの京都街宣に参加して感じたこと。
これはもう、「言葉大戦」が始まっているのだ。言葉と言葉がぶつかりあって僕たちひとりひとりに、その善悪を問いかけているのだ。
神戸大学院のじゅん君のスピーチは感動的だった。録音データを聞くと僕は共感の叫びを上げている。
そのとき、ちょうど安倍晋三は空虚な言葉の塊をマスメディアで垂れ流していた。
その言葉が流れる量は圧倒的である。じゅんくんの言葉は参加者1000人と一部のソーシャルメディアで流れるだけの量しか持っていない。
しかし、その質は安倍晋三を圧倒的に上回る。なぜなら自分の言葉を腹の底からしぼりだしているから。風船のように軽い安倍晋三の言葉は、自分で研いだ鋭いナイフの切れ味を持つ言葉の一撃で破裂するだろう。
なぜ、SEALDsの活動が共感を呼んでいるのか? それは彼らが自分の言葉をエネルギーにして行動しているからだ。
以下、じゅん君のスピーチを抜粋して書き起こします。

民主主義において重要な要素のひとつは対話です。
しかし安倍政権は自分に都合のいいときにしか人の話を聞こうとしません。
いくら問いかけられてもロボットのように同じ事しかしゃべりません。これでは対話はなりたちません。
そのような人たちを前に、言葉とはなんと無力なものだろう、と僕は感じるときがあります。しかし、僕らは言葉を捨ててはなりません。それでは彼らと同じになってしまい、問題を解決するための糸口を閉ざしてしまうことになるからです。
だからこそ知性の名のもとに民主主義の誇りをかけて、何度でも彼らの嘘をあばき、何度でも彼らの間違いを指摘しましょう。
僕は事実と論理に基づいて彼らに言葉を投げかけることをやめません。あきらめせん。
僕らひとりひとりの中にある言葉を紡ぐことが、この狂気ともいえる政治に対する強力な手段となります。僕は戦争に反対です。僕は立憲主義民主主義に基づく政治を求めます。
あなたの言葉を発信してください。あなたの言葉で発信してください。

SEALDsが自分の言葉、自分たちの言葉で発信した「戦後70年宣言文」はボイジャーの萩野正昭さんが電子出版してくれた。僕はiPhoneに格納している。


SEALDsの勇気に背中を押された僕は、デモに行く。
8月23日、SEALDs Kansai 京都円山公園デモ。鴨川にかかる二つの橋をデモ隊が同時に進行していた。参加人数1800人。


高松でも松江でもデモに行った。
7月26日、高松では山本太郎さんの叫びを聴いた。


9月12日、松江では天つ神に対抗する国つ神の波動を感じた。


そして、松江デモの1週間後、9月19日に安倍劣化型政権は戦争法案を強行採決した。
2015年9月18日は満州事変から84年目の記念日だった。この日から翌日の未明にかけて国会の中と外で起こったことを僕は忘れない。


松江でのデモと強行採決に挟まれた9月14日に、僕は『国つ神と半農半X』の取材で奥出雲の田樂荘(だらくそう)に宿泊していた。
国つ神の結界のような空間と源流掛け流しイセヒカリ田んぼ、そして、オーガニックコットンの畑で白山洋光さんと話し込んでいたのだ。

取材音声データは長時間になっていた。なんとか今年中に、奥出雲文脈レポートを書きたかったのだが、年を越してしまう。
書けなかったは第一に僕の怠惰のせいだが、9月18日を忘れないために、安倍晋三に対するカウンター情報発信を優先したからでもある。
白山さん、ごめんなさい。来年は、白山さんのXを伝えることを最優先しますから。


松江デモでは興味深い話を聞いた。SEALDsの奥田愛基(おくだあき)くんのことだ。

毎日新聞12月16日東京夕刊より

愛基くんが松江での戦争法案反対集会に人が集まっているのを見て言った言葉がある。
「すげーっ、しまねでこんなにひとがあつまったのをみたことない」
えっ、そげなことはないけんね。松江は神々の国の首都で大都会だがね、と僕は思っていた。

実は、愛基くんは島根県江津市(ごうつし)のキリスト教愛真高校卒業生だということをデモの参加者が教えてくれた。
僕は納得する。あのあたりなら、確かに人は少ないだろうな……。
といっても、島根鳥取の地理感覚がまったくない人もいるだろう。これを機会にぜひ山の陰の地図を開いてほしい。

社会はそんな簡単に動かないし、変わらない。しかし、それらはすべて言うまでもないことで、言ったところでなんの意味もない。「社会に絶望した」だとか「日本は終わった」みたいな話は当たり前すぎて、もうこれ以上聞きたくない。そういう人はいつだって変わらないふりをしてるし、絶望したふりををしてるから。この国は、俯瞰的に見るだけで実は何も言ってない評論家が多すぎて、やる人があまりに少なかったのだと思う。
絶望の国で何ができるのかが問われている。全部が変わるなんてことは僕も信じない。けど、はたして変わらないものなんてあるのだろうか。
誰かのせいにせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてきた。これからもそうするだろう。何もまだ終わっていない。これはお別れの挨拶でもないし、始まりの挨拶でもない。なぜなら、ある局面が終わり、次の局面がもう始まっているからだ。 
2015年9月20日 奥田愛基(『SEALDs 民主主義ってこれだ!』より)

どうやら国つ神の文脈とSEALDsは繋がっているようだ。国つ神というのは僕が勝手に言っているだけだが。
実際のところは、SEALDsを支えるメンバーにはクリスチャン系の高校を卒業している人が多いそうだ。

12月13日は、松江でSEALDs Kansaiの寺田ともかさんが講演をした。
僕は参加していないが、アップされていたともかさんのスピーチを聴いて、また驚いた。
ともかさんは愛基くんと高校の同級生だったのだ。そして、「勝手に島根を第二の故郷だと思っている」と言った。

キリスト教愛真高校には「みなさん、自由であってください。真実であってください」という標語が掲げられているそうである。
ともかさんは高校時代に愛基くんといっしょに米作りをしたこともあるという。
さすがは半農半X先進県のフロンティアにある高校だ。


12月20日、僕は今年最後のデモに行く。SEALDs Kansai の京都円山公園デモ。
サウンドカーの上に寺田ともかさんが立つ。iPhoneを見つめながらスピーチする。
SEALDsという名前が流行語大賞をとった。
一部の人たちは、デモをする学生を、英雄か、ちょっとしたアイドルのように持ち上げた。
新聞や雑誌には、SEALDsとは何なのか、彼らはどのように生まれたのか、というような評論が載るようになり、取材や講演会の依頼が1日に何件も来るようになった。
だけど、それは、私の、私たちの望んでいたものではない。
私たちの目指しているものではない。
私は、私たちは、運動の中に出会いや居場所を求めていたわけでも、自己表現の場としてデモを企画していたわけでもない。
私たちこの夏が成し遂げたかったのは、
あの、欠陥だらけの法案の成立を食い止めること、それだけだった。
(中略)
私も、こんな天気のいい日曜日の午後に、
自分の国の総理大臣に向かって、やめろだなんて、叫びたくはありません。
顔と名前を出して、自分の意見を言えば、ネット上で、顔も名前も出さない人たちから人格を否定される。
だけど、こうやって、私の、何の変哲もない、顔と名前を出して、自分の意見を言うことが、歩道の端っこから、カフェの窓から、画面の向こう側から、同じ思いで見ているあなたが立ち上がるその勇気になれば、それ以上のことはないと思ってここに立ったんです。
一緒に歩きましょう。

SEALDsに関しては、まだ書きたいことがある。でもそれも来年にしよう。また始まるのだから。
僕は「SEALDs for Contexter」という文脈レポートを書くだろう。


2015年は文脈の雲が次々とわきたつ年であった。
「書きのこし」リストをつくっておこう。2015年「書きおこし」メディア元年の年の終わりの試しとて。

宇沢弘文「人間経済学」の系譜。
「ブックインとっとり」知の民主主義。
「みくさのみたから」イノチのすべ。

簡単にリストにしてしまった(笑w)。それぞれがとても大きいコンテキストなのに……。
そして、なによりも2016年は『国つ神と半農半X』原稿を完成する必要がある。書くのだ。



2015年も逝ってしまった人が多い。しかも戦争の語り部たちが。

ベ平連をつくった鶴見俊輔さん、命日は7月20日、享年93歳。
もう少しアメノウズメとサルタヒコの勉強をしてみます。


山の陰で育った水木しげるさん、命日は11月30日、享年93歳。
あなたの「ふーっ!」の意味が分かってきました。イノチのチカラが闇を晴らしますように。


敬愛する野坂昭如さん、命日は12月9日、享年85歳。
本棚で埃をかぶっていた『行き暮れて雪』初版本読みます。


さて、2015年もあと30時間となった。
今年の文脈レポートでは書けなかったけど、繋がっていただいた人たちに感謝の気持ちを伝えよう。

4月22日(京都)、白沙村荘橋本関雪記念館の橋本妙館長。満州小説、もう1本書きます。


4月26日(野洲)、木村秋則さん。あなたの笑顔に僕も抱きつきたくなりました。


7月4日(東京)、萩野正昭さん。あなたの涙の意味が僕には分かります。


9月14日(奥出雲)、白山洋光さん。『もののけ姫』のアフターストーリー、できそうですね。


9月19日(高松)、飯田茂実さん。みたからひらき、ありがとうございました。


10月24日(鳥取)、『基地で働く』の著者、磯野直さん(写真中央)。買って応援!沖縄タイムス。


11月14日(京都)、星川淳さん。半農半著の話、イロコイ族の話、また聞かせて下さい。


11月24日(邑南町)、「Ajikura」の耕すシェフ、南原悦子さん。今年、最高のディナーでした。


僕、フミメイの2015年はMERRY in KOBEで始まり、MERRY SMILE XMAS in OSAKAで終わった。

12月23 日、水谷孝次さんとのメリーショット。


そのとき、水谷さんに言われた言葉がある。
「フミメイさんはほんとうに勉強好きですね」

確かにそうだと思う。勉強の成果があるのかどうかは分からないが、「もっと(世の中のことを)知りたい」という知識欲はどんどん強くなってきているような気がする。

「死ぬまで18歳」という持続する志はまだ持っている。
問題はいつまで「死ぬまで18歳」でいられるか、ということだ。
自分の人生で残された時間はまだまだあるのかも知れない。あるいはカウントダウンが始まっているのかもしれない。それは天神地祇(てんじんちぎ)のみ知る、である。

「メメントモリ(死を思え)」は来年64歳になる「死ぬまで18歳」の基本的なマナーでもあるのだ。

きっとイノチは生きたいときまで生きるだろう。行きたい方に行くだろう。

そんなことを思いつつ、今年のコンテキスター業務を完了しようと思います。

2015年ラストショットは塩見直紀さんと盟友原田ボブへの感謝!
ありそうでなかった3ショット。


そして、おまけは未来への種。


夜明け前がいちばん暗い。明けない夜はない。
来年こそは、日ごと夜ごとに、すべてがうまくいきますように。

みなさん、よいお年を。1年間、拙いレポートを読んでくれてありがとうございました!



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