2015年11月29日日曜日

『国つ神と半農半X・松江篇』

さて、松江である。小泉八雲が「神々の国の首都」と呼んだ町である。
ヘルンさんことラフカディオ・ハーンが松江で過ごしたのは明治23年(1890年)8月から翌年の11月までだった。

思えば、ヘルンさんは松江への移住者第一号だったのかもしれない。
現在、多くのIターン者を受け入れる島根県の県庁所在地、松江は文明開化の頃から志のある人々を受け入れる下地があったのだろうか?
ギリシアで生まれ、アイルランドで少年時代を送ったヘルンさんはフランス、イギリス、アメリカ合衆国とわたり歩いた末に日本に来た。

日本の中でも特に松江はお気に入りだった。1896年(明治29年)に帰化したときに小泉八雲と名乗ったのは、松江へのオマージュだろう。
「八雲立つ」出雲の城下町をヘルンさんは、風の人の情感を持って描写する。
『神々の国の首都』で描かれた松江はひたすらに美しい。


「こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万(せんまん)有難う存じまする」たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない。或る人たちは太陽に向かってだけ柏手(かしわで)を打っているが、ずいぶん多くの人たちは次に西に向かって聖なる杵築(きづき)の大社(おおやしろ)を拝む。又、少なくない人々は引き続き顔をあらゆる方角に向けて数知れぬ神々の御名を唱える。 
(『神々の国の首都』講談社学術文庫/P105)
またヘルンさんは松江大橋をめぐる描写もしている。
大橋を渡る下駄の響きほど忘れ難いものはない。足速(あしばや)で、楽しくて、音楽的で、大舞踏会の音響にも似ている。そう言えば、それは実際に舞踏そのものだ。人々は皆がみな爪先(つまさき)で歩いている。朝の日差しを受けた橋の上を無数の足がちらちら動くさまは驚くべき眺めである。それらの足はすべて小さくて均斉がとれていて、ギリシアの瓶に描かれた人物の足のように軽やかである。(P107)

ヘルンさんが松江大橋を渡ってから10年後、明治33年(1900年)、大橋の南詰めの八軒屋町に野津旅館が創業した。今も残る源助桜のすぐ東側である。


野津旅館は僕の取材のベースだ。現在は、新大橋の南詰めにある。初めて訪れたときは、いかにもヘルンさんが好みそうな木造の宿だった。


僕が初めて野津旅館に行ったのは1980年頃の冬の季節だったように思う。
このへんの記憶が曖昧なので、僕はいつも山の神に叱られるのだが。
そう、松江の野津旅館は山の神の実家である。

昔も今も変わらず、松江の人は酒吞みが多い。妻となる人の父上にはじめて会いに行ったとき、僕はみごとに酔っ払ったらしい。
「酒吞みに悪いやつはおらんがね」
僕が二日酔いの喉の渇きに耐えているとき、父上の言葉が聞こえてきた。
このご託宣によって、僕は松江の山の神と結婚できて、今に至る。かれこれ35年間、松江周辺をうろうろしている。

その徘徊がこうじて、『国つ神と半農半X』という途方もないコンセプトに迷い込んでしまった。
ぼやいてもしかたがない。自分で言ってしまったことなのだから。

「ゆうたらやる」が、電通を脱藩して以来、僕の行動指針になっている。この指針は協創LLPと上山棚田団という超現場至上主義集団と交わることによって培われたものだ。
現在、僕は彼らの現場とは距離を置いているが、学んだことは実践している。

言葉は言霊である。口に出したことは現実を動かす力を持っている。
そして、言葉には情と理がある。パトスとロゴス。右脳と左脳。
広告代理店にいた36年間、僕の言葉は首から上のものだった。ロゴス中心だった。
それが、半農半Xというコンセプトに出会って以来、地に足をつけたものになっているはずだ。そう信じないことには、もう僕は一行も書けやしない。「ゆうたらやれる」はずなのだ、たぶん。


本題に入ろう。今回の文脈レポートは、松江で、知と地を耕している人の話である。
その人は「神々の国の首都」で島根県議会議員をしていた。
三島治さん、65歳。この人がいなかったら、島根県に半農半Xという言葉が広まることもなかったかもしれない。事始めは松江の西津田で土知(とち)を持っている三島治さんだったのだ。


三島議員が半農半Xと塩見直紀さんに出会ったタイムラインを整理しておこう。

塩見直紀さんのことを知ったのは2008年。同級生の息子が綾部に住んでいたのがきっかけだった。塩見さんのことを聞いて里山ねっと・あやべまで会いにいったのだが、不在。そのときに『半農半Xという生き方』を購入した。


それから2年後、三島さんは再び綾部を訪れて、塩見直紀さんに会う。
「半農半X」コンセプトに共鳴した彼は、ぜひ松江で講演会を!と塩見直紀さんを誘った。

そして2011年3月6日。東日本大震災の5日前に塩見直紀さんの島根講演が実現した。会場の島根県議会議事堂別館には、全国から参加者が集まる。



この日、僕の仲間たちは野津旅館に宿泊した。3月7日に地域おこし協力隊の全国ネットワークである「村楽LLP」の設立準備サミットを飯南町で開催するためである。その夜の縁会は忘れられないものになった。それはまた別の物語だが。



この講演会の主催は「NPO法人日本エコビレッジ研究会」であるが、言い出しっぺは共催とされた「県議会議員・三島治」さんのようだ。
塩見さんの話を聴いて、当時、県庁の職員だった松本公一さんが「半農半X」という言葉を県の施策で使い始める……。


僕がはじめて三島治さんに会ったのは2014年2月1日。日本エコビレッジ研究会主催のオフ会だった。その夜は2次会、3次会まで飲み続けたような気がする。

『国つ神と半農半X』取材を始めるときには、原点である三島さんの話をまず聴くべきだったのかもしれない。
それが、様々な巡り合わせで9月13日まで取材ができなかった。
この間、彼は大きくライフスタイルを変える。
2015年4月末で28年間の議員生活にピリオドを打ち、本格的に半農半X生活に突入したのだ。

そして三島さんは新しいブログを始める。
【見習い百姓のつぶやき】宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。  
このブログの更新頻度がすごい。遅筆の僕には真似ができない。まるで「時間どろぼう」から人生に残された時間を死守しようとするように、言葉を耕しつづけていらっしゃる。

「見習い百姓」の膨大な投稿をナナメ読みしてから、僕は松江市西津田のご自宅を訪ねた。
玄関から左の扉を入ると、壁一面の本棚。背表紙を眺めていくだけで、活字中毒者の僕は興奮する。

今回の文脈レポートが遅れたのにはわけがある。まず第一には僕の怠惰であるが、三島さんとの会話に出てきた本や資料を読んでからでないと、書けなかったのだ。

土知を耕す人の知の話から始めてみよう。

知の元は本である。
自然栽培であろうが有機栽培であろうが、最初の土づくりは欠かせない。知の世界も同じである。実りを手にするためには、まずは知の土壌を発酵させる必要がある。そのために本を読み、本を語る。本の言葉を自分の言葉にして耕し続けること。
時間がかかるが近道はない、と僕は思う。

そもそも、三島治さんが塩見直紀さんの本を「里山ねっと・あやべ」で手に入れなかったら、2011年3月6日は実現しなかったのだ。

三島さんは言う。
「今の若い人の中には創造力が衰えてきている人もいますね。今ほど、創造力が必要な時代はないのに。だから指示待ち人間が増えているのですよ。創造力を培う元になるのは本の世界。読書量。いろんな情報を自分にインプットして、それを自分の中で処理してアウトプットしていく。絞って広げて、広げて絞って思索しながら。ネットの世界は虚実が取り混ざっているけれど、本の世界はそれが少ない。でも、すごく広い。本の世界で、どれが正しいかと判断するのは、自分の感覚の世界。そのためにもたくさんの本を読まないと、ひとつの問題を考えて、ひとつの道をつくっていくことはできないのでしょうね」

「僕が自分で何かのテーマをやろうと思ったときは、本を読むことから始める。10冊とか20冊とか30冊とか……」

うーむ、この人の読書量には一生追いつけないだろうな、と文脈家は思う。自らの「積ん読本棚」を眺めながら。

三島さんとの「知を耕すこと」を巡る会話では、梅田望夫(もちお)という名前が出てきた。
彼の『ウェブ時代をゆく』なら、僕も読んでいる。本の中で提示された「けものみち」という言葉は愛用している。
インターネットという「知の高速道路」で僕たちは、自分の目標の近くまでは素早く行ける。問題は高速道路を降りて、「けものみち」をたどれるかどうかである。

一言で言えば「けものみち」とは、高速道路を疾走するのに比べると、まあ何でもありの世界である。好きなこと、やりたいこと、やりたくなくてもできることを組み合わせ、ときに組織に属するもよし、属さぬもよし、人とのさまざまな出会いを大切にしながら「個としてのストーリー」を組み立て、何とかゴチャゴチャと生きていく世界だ。(『ウェブ時代をゆく』P102)
三島さんの「けものみち」は楽しいのだろう。議員という大きな道から降りてからは特に。
半農半Xを本格化させるために議員をやめてからは表情が変わったそうだ。
それはそうだろう。知と地に足をつけた生活なのだから。

「僕は明らかに違ってきた。今、いやな人には出会わない。まったくといっていいほど出会わなくなりましたね。ほんと不思議だね。いい人にしか出会わない。こっちの思いがそうなっているからかな。半農半Xというのは、そういうことで繋がっていく世界なんだろうね」
と語る三島さんは楽しそうだ。

「Xはクロスですからね。今まで平行線だったものをクロスさせていくのも半農半Xの力です」
主任研究員が半農、じゃなかった、反応をする。


一方、三島さんが土を耕す話である。県会議員をしつつ、野菜つくりを始めたのは2011年6月。それなら僕とそれほど変わらない。この取材シリーズでは、若くても百姓に関しては大先輩に出会うことが多い僕は、ちょっと安心した。

家のそばで二箇所の畑。それから、現在は、弟の三島耕二さんの畑も引き受けているそうだ。耕二さんは「いまみや工房」を営む半農半陶芸家である。

「農に関することは、大体、百冊の本を読むと分かるんだって」と三島さん。
あれれ、本を百冊も読んでいると百姓する時間がなくなるのでは?と密かに思う主任研究員。

自然農の先駆け、福岡正信さん、田んぼの哲学者、川口由一さん、有機農法の伝道師、西村和雄さん、骨太の農学者、宇根豊さん……。三島さんの本棚にはたくさんの農にまつわる本も並んでいる。

百人いれば、百の流派があるはずの百姓の世界。様々な圃場や農業者をたずね歩いた三島さんは、今、「立てて育てる」自然栽培を実践しているという。
提唱しているのは、広島の道法正徳さん。5月に広島で話を聴いて、これだ!と直感したら、9月には松江で道法さんの「環境保全型農業の推進」という講演会を開いてしまう。
彼のX力には時間どろぼうがつけいる隙がないようにみえる。


さつま芋も立てて育てています、トマトも5本立てにして束ねます。ブロッコリーの葉っぱも縛ってみようと思います。三島さんが案内してくれた畑は支柱でいっぱいだった。


「植物も人間もいっしょなんですよ。体幹体軸を整えたらストレスがなくなる。台風で倒れても野菜はしばらくしたら立ちあがるでしょ。立てた方が自然なのでしょうね。植物を育てるのは肥料ではなくて、植物ホルモンなんですよ。その流れをよくするために、地軸にそって立てる。そしてエネルギーというか気の流れをよくしてあげるのです」
それから、三島さんの話は予期しないところにクロスしていった。

「白雪姫プロジェクトのかっこちゃんのみやぷーへの対応もそうでしょ。まず身体を立てる」
えっ、野菜の話が植物状態になった人間の回復方法の話に繋がった!

かっこちゃんこと山元加津子さんの講演なら僕も聞いたことがある。脳幹出血で倒れたみやぷーこと宮田俊也さんとのコミュニケーションを回復していく方法の話である。


半農半Xの取材をした人の農的方法論を聴いていくと、自ずから、その人のXの方向性が見えてくる。
三島治さんの場合は、自分の農のみならず、日本の農業の未来まで射程にいれているのだろう。

自然栽培でも慣行農法に負けない収量を実現できるやり方を模索すること。そうすれば農家の稼ぎが適性なものになって、自給農をする人たちとともに日本の自給率を上げる流れになっていく。三島さんは、そういう農的文脈を探しては広めていく動きを続けている、と僕は思う。


農的文脈に、気の流れなど人間の潜在意識と大宇宙の話が繋がっていく。治さんの話を聴いていると気持ちがよくなってくる。

僕の口も軽くなっていく。思ったことを言ってみた。
「三島さんは、もちろん土も言葉も耕しているけど、その結果、問題も耕しているのじゃないかな?というふうに僕には見えるんですけど……」

出ました。文脈家得意の勝手判断。三島治は半農半問題耕作人である。
耕作人は爆笑してくれた。そして、冷静に自己分析をする。

「問題を耕すというより、自分の中を耕したんだね。そしたら問題にいきあたる。その問題を発掘していく。いや発掘させられている?自分が見つけ出したんじゃなくて、向こうから寄ってきたんだよなあ。たまたま、それに自分の意識が反応したということ。なにかひとつをやっていくと、必ず通底しているので、新たな問題に出会う。先達が取りくんでいることを僕も発掘させていただき、それで楽しませてもらっている。ありがたいことです」

問題と問題の間を笑顔で渡り歩きながら、三島治さんは地と知に根ざした「ひとづくり」に励んでいる。生きててよかったなあ、と心の底から思える社会を支える価値観を共有できる「ひと」のタネを継いでいくために。
彼の究極のXは「人が喜ぶことをする」だという。これはまた素敵な天職である。


無肥料無農薬で、まっすぐ上に向かっていく野菜づくりをしている三島さんは、自分の蔵書がある部屋をマイクロライブラリーにして人づくりに役立てようとしている。


マイクロライブラリーとは、個人の蔵書を貸出可能にして、その空間で本を通じた読書会などを開催するオープン・スペースのことである。

治さんのFB投稿では、「本とバルの日・つながるつだバル」開催というのを見かけることがある。場所は「マイクロライブラリー・西津田扉文庫」。


松江市西津田の三島さん宅の玄関を左に入ったところに扉があって、中には本がいっぱい!
なんと、「本とバルの日」の開催場所はここだったのか。取材の途中でようやく気がついた僕に彼がオファーする。

「せっかく半農半Xの話をしたのだから、次回は田中さんがゲストでテーマは《天職》にしよう。《天職》に関わる本と吞みたい酒を持って来てください。来てくれますよね!」
文脈家に断る理由はない。聞けば、本とバルではバル、すなわち飲み会の方の比重が高いそうだし。


そして、10月5日、僕は焼酎と『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)を持って、三島さんのお宅を再訪する。西津田扉文庫へ行く。


「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か」
内村鑑三が33歳のときに天職について語った言葉は、塩見直紀さんの人生を変えました。
天職について考えていた28歳の塩見直紀さんは、この言葉にインスパイアされて、自身も33歳で会社を辞めました。天職を全うするためには、人生の締切日が必要なのでしょう。その後、35歳で塩見さんは「半農半X研究所」を設立されて……。

というように、主任研究員は本を紹介してバルタイムに突入していった。

一方、三島治さんが天職をテーマに選んだ本は『モモ』(ミヒャエル・エンデ/岩波書店)だった。


ほんとは、『エンデの遺言』を紹介したかったのだが、この本は貸出中。そこで同じテーマの『モモ』を選んだそうだ。
三島さんが天職について考えるスタートラインは「根源からお金を問うこと」らしい。


働いても働いても、なぜ豊かにならないのか。物質的な豊かさとは裏腹に、ますます心のなかに広がる空虚感……。エンデの『モモ』は時間のほんとうの意味、ゆとりの大切さを強く訴え、世界中の多くの読者を魅了しました。『エンデの遺言~根源からお金を問うこと』(河邑厚徳+グループ現代/NHK出版)

この会の詳しいレポートは、「見習い百姓」さんにおまかせしよう。

そういえば、本とバルの会の前日、10月4日には「宇沢弘文記念フォーラム」が米子で開催されていた。奇しくも三島治さんと僕は同じ会場にいて、「経済学の原点は人間。人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね」と主張した経済学者に関する講演を聞いていた。
エンデと宇沢弘文も通底している、と文脈家は教えられた。


ヘルンさんが愛した松江には、もうひとつ素敵なマイクロ・ライブラリーがある。
「曽田文庫ギャラリー」。市内の閑静な住宅街で扉を開いている。


実は、三島治さんは「曽田文庫応援団」の設立メンバーでもある。
本をめぐる文脈に出会うと、この人は「なんとかせないけん」と問題を耕してしまう癖があるのだ。


曽田文庫の中は松江の本好きがゆっくりと過ごせる空気感で満ちている。ここでも文脈家は小泉八雲関係の本を探してしまう。きっと国つ神関係の貴重な文献もあるのにちがいないのだ。


僕はさりげなく、野津旅館の関係者をモデルにした小説『消えた街』を小さな図書館に置いてきた……。


松江は美しい町である。切なくなるくらい美しい。夕陽が出雲大社の方に沈んだら、朝日は霊峰大山(だいせん)の方から昇ってくる。ヘルンさんが見た時と同じように日は昇り日は沈み続けている。

スサノオがクシナダ姫に恋をした時代には、光と闇のコントラストはもっと鮮烈だったのだろう。空を映す宍道湖は国つ神たちに何を語ったのだろうか。国つ神の言霊は今でも出雲から日本列島に浸透し続けているのだろうか。



思えば、塩見直紀さんも言葉を耕す人である。様々な本を読み、その土壌に丹念に鍬を入れて半農半Xの道しるべとなる言葉を実らせていく。そして、言葉のタネを降ろしてくれる。
たとえば、こんな感じである。11月29日に塩見さんのフェイスブックに投稿されたもの。




「自己究明」は自分を耕すこと。
「他者救済」は人の喜ぶことをすること。
そう読み替えれば、まさに三島治さんのXを表現している言葉のようにも見える。

『半農半Xという生き方』という一冊の本が、言葉に対する感度が極めて高い塩見直紀さんと三島治さんを繋いだ。



これも綾部と出雲を通底している国つ神の思し召しだろうか、と文脈家はまた勝手に夢想するのだった。




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