2013年1月17日木曜日

たまには昔の話を

たまには昔の話をしよう。
1月12日に上山さいぼう庵に着いた直後に携帯が鳴った。
発信者は昔の仕事仲間。嫌な予感がした。用件は予想どおり。
江馬民夫さんが亡くなった。

電通でCMをつくっていた時代にとてもお世話になった人だ。享年82歳。
骨太のドキュメンタリーカメラマンから敏腕プロデューサに変身した江馬さん。
戦後のCM界の生き字引だった江馬さん。
宝塚映画といっても、もう分かる人はいないだろうな。
エマ・クリエーティブ、エマクリの江馬さん。もちろんもうこの会社もない。

サンミュージックの江馬さんといえば、業界人には分かるはずだ。
今はなき赤坂ホテルニュージャパンのロビーでデビュー前の松田聖子に江馬さんといっしょに会ったことがある。
江馬さんはその後、聖子の後見人的立場を長い間、続けていた。
僕は江馬さんと組んで、何本か若き日の聖子のCMを制作した。

そんな思い出よりも、江馬さんと僕はとにかく気があった。
なぜだかはいまだによく分からないが。
僕が結婚したときはハワイまで来ておめでたムービーを撮影してくれた。

その仲のよさが極まったのがアフリカ・ケニアロケだった。
1981年。そのとき、僕は29歳、江馬さんは49歳。

とっくに自分でカメラを回すことを止めていた江馬さんが、このロケではカメラマンになった。2台の16ミリカメラを持って最小スタッフでケニア奥地のトルカナ湖まで入る。
16ミリカメラのうち、1台はアリフレックス。もう1台は写真家・西宮正明さんにお借りした手巻きのボレックスだった。もちろんビデオではない。銀塩フィルムの16ミリだ。
厳しいロケ環境でバッテリーが充電できないことも考えて手巻きのムービーカメラ、ボレックスも持って行くことにした。

トルカナ湖でのロケの朝。江馬さんは湖のほとりにある井戸で顔を洗い、その水を飲む。
江馬さん、その水はやばい、と僕は思う。それでもプロデューサからカメラマンの面構えになった江馬さんは気にしない。

トルカナ集落での食事シーン、彼らが巨大魚ナイルパーチを捕獲するシーンと撮影は続いていく。
僕はボレックスのネジをギリギリ巻いて江馬さんに手渡す。江馬さんはカメラを手持ちで回していく。
江馬さんの気合いが現場を圧倒していたロケだった。そのCMとプロモーションムービーは僕の宝物だ。

トルカナ湖からナイロビまで、行きはヘリで飛んだ行程を帰りはクッションの悪い4駆で道なき道を行く。
僕と江馬さんにはある思惑があった。
クライアントからリクエストされた映像だけでなくアフリカ難民のドキュメンタリーを撮影しよう。
飢えて石を握りしめる人々の動きを追えるだけ追っていこう。
これはかなり無謀な話だった。遭遇するアフリカ難民のきつい視線と対峙してカメラを回し続ける江馬さん。
その日はついに宿がみつからなかった。たまたまたどりついた赤十字の施設に潜りこむ。
食料もない。荷物の中に残っていた撮影商品を食べてしまう。このロケは凄かった。

その後、僕が49歳になって、その時、少ししょぼくれていた自分と江馬さんを比較してみる。
49歳にしてケニアの地でカメラを回した江馬さんを思い出し自分を叱咤激励した。

江馬さんとはその後も長いつきあいが続く。忙しいCM撮影の合間に江馬さんはよく僕に言っていた。
「田中ちゃん、アフリカの16ミリはそのままエマクリにおいてあるんや。いつか編集しよな」

それが、僕の方の環境の変化で江馬さんと仕事をすることは次第に少なくなっていった。
「田中ちゃん、エマクリもう閉めようと思って倉庫を整理したけど、アフリカの16ミリ、どっかにいったみたいや。ごめんな」

江馬さん、そんなことはどうでもいいのです。
仕事が遠のいてもあなたは時々、僕のデスクに電話をかけてきてくれた。
電話を取った僕の部下は「いつもの変なおっさん」という感じで受話器を渡す。
僕は長話をした。

電通を脱藩してからもあなたは時々、電話をくれた。
「江馬でえす。田中ちゃん、どうしてるの。たまには電話ちょうだいよ。東京には来ないんか?」
僕は広告業界とは別の世界に行ってしまい、江馬さんにこちらから電話することもほとんどなくなった。

江馬さん、電話しなくてごめんな。
あなたといっしょにたくさんの仲間を見送ってきたとき、僕はいつも言っていたはずですよ。
「最後に全員を見送るのが江馬さんの役目やな。江馬さんはそう簡単にはくたばるはずないから」

江馬さん、僕はあなたを見送りに1月20日、五反田に行きます。
何度も何度も、深夜いっしょに通ったイマジカのすぐそばで見送ります。
江馬さんにはイマジカではなくて東洋現像所と言った方がよく似合いますね。

さようなら。合掌。





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