2011年4月30日土曜日

文脈日記(電子読書の快楽)


いつのまにかゴールデンウィークというものになった。
月末は文脈研究のエントリーを書く時でもある。でもなんだか気分が中途半端だ。

久しぶりにアマゴ釣りに行って電光石火のアタリと稲妻のような引きを味わっても心は晴れない。うちの老犬メイと散歩に行ってうんちを回収しているときも、一晩かけてわらびのあく抜きをしておひたしをつくっているときも、身体の中に白くて堅い石があるようだ。
この言葉は村上春樹の受け売りだが。

「釣り師は心にどこか傷を負っているが自分でそれに気がついていない」
という台詞は開高健が好んで使っていた。

釣り師の端くれである僕にももちろん心の傷があるのだろう。
そして3・11以来、さらに白くて堅い石が追加されたようだ。

この列島の西にはまだ愛おしい山河が残っている(はずだ)。ツバメはいつもの年と同じ場所に巣をつくる。じゃがいもは新芽を出した。エンドウはもうすぐ収穫だ。箕面の山は新緑が点描を描いている。

異常が日常になって自分の周りは妙に静謐だ。
ヒロシマ、ナガサキに加えて日本国自らが投下した3発目の核、フクシマの情況は何も変わっていないのに。

今、現在、アンガージュマンしていることはいくつかある。前に進んでいるはずだ。
ただ僕のやっていることは、どこまで行ってもテキストレベルだ。
コンテキストを紡いで編んで、投げかける。

言葉が虚しい、というのは3・11以後、よく聞かれる言葉だ。
情況が高速回転しているときに言葉を弄ぶのは虚しい。
というのが正確な表現だ、と今の僕は思っている。

3・11直後に「クリエーターの皆さん、節電コピーを考えましょう」というツイートが回ってきた。僕はこの動きに強い違和感を感じた。

原発の動き、被災地の情報が飛び交っているとき、無名のキュレーターたちが必死に情報を整理拡散しているときに言葉を弄んでいるのがクリエーターという人種なのか、それでいいのか、という違和感だ。
コンテキスターというのも、結局は言葉で戯言と妄想をまき散らすだけの職能なのかもしれない。でも、そのとき、その場のコンテキストを把握した上での発言をしている、という最低限のマナーは守っているつもりなのですが。

ただし、現状はいつまでも「言葉が虚しい」とばかりも言っていられないステージになってきた。
情況が次のベクトルを示すとき、やはり言葉はその道標になるはずだ。
そして言葉の集積である書籍の役割はますます重要になってくる。

今、とても本が読みたい。
言葉の真の意味で「晴耕雨読」をしたい、と願う。
やればいいのだけど。

断片の洪水となって溢れてくる情報とは距離を置いて、まとまったカタチでキュレーションされた本をじっくりと読みたい。
あるいは上質なエンターテインメントとしての本に没頭してみたい。

そして、僕にとっての本は半分が「電子読書」になりつつある。

異常を抱えた日常作業として、このエントリーは「電子読書の快楽」という宿題を片づけたいと思う。

送り手サイドの言葉である電子書籍を読者サイド、すなわち電子読書という視点で解読してみたい、とずっと考えていた。

脱藩以来、電子読書は追い続けてきたコンテキストだ。
実は今年の1月末には「電子読書の快楽」というプレゼン資料を制作していた。
上山棚田団の出版プロジェクトに関わって校正をしている合間に、電読にまつわるあれこれをまとめてみたくなったのだ。

プレゼンする相手も機会もなかったのだが、自分自身のためにつくった資料だった。
その後、もろもろの情況の変化で放置していたものを見直してみた。
3ヶ月前のものだが、それほど古くはなっていない感じがするので、思い切ってダダ漏れしよう。

ご興味のある方はご覧ください。こちらにリンクを貼っています。


3・11では数多くの書籍が流されたことだろう。濡れた紙は二度と人に読まれることなく放棄されていることだろう。でも紙という器と本という中身は別物なのだ。
本というコンテンツを未来に引き継いでいくために「電子書籍」という器はますます重要になっていくはずだ。

津波で数多くの建築物がなすすべもなく流されていくのを見たある建築家は、このままでは「建築」という概念すらなくなってしまうという危機感を覚えたそうだ。

形あるものは崩壊する。
そう認識することからポスト3・11の世界が始まるような気がする。

歴史的に見ても、本の容れ物は変遷してきた。
木簡、パピルス、そしてグーテンベルグの活版印刷。15世紀のルネサンスは活版により知の共有化ができたことも関わっている。

電子書籍は次世代に知見を伝えるための容れ物としては優れていると思う。
純粋にコンテンツだけを抽出された本は、ある種のフェイル・セーフとも言える。
紙が朽ち果てても、デジタルデータはこの地球上のどこかに残る。
紙には放射性物質が付着しても、純粋データは汚染とは無縁のはずだ。

青空文庫というネット上の電子図書館がある。
著作権が切れた書籍をボランティアの力でデジタル化している。そのコンテンツは日々、増加しているようだ。

東北出身の知の巨人、宮澤賢治の作品も青空文庫になっている。

夢想する。
もしかしたら避難所で、その暗闇の中で、携帯端末のバッテリーを気にしながらも宮澤賢治を読んでいた人はいなかっただろうか。

いや、もちろん、電気や水道やライフラインの情報が優先で、そんな人が存在したはずはない。
こんなことを考えていると、僕の気分はまたどんどん中途半端になっていく。
たとえ極めて個人的な文脈研究であろうとも、すべてのことは3・11のコンテキストから逃れられなくなったのだ。

2 件のコメント:

  1. 塩見さんから宮澤賢治「農民芸術概論」なる小冊子入手しました。こんど見てもらいます。農と自然の研究所主宰。宇根豊氏の手によるものです。この人の講座を受けたことがありますが、農の哲人でした。

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  2. ずいぶん、間の抜けたコメント公開ですみません!「農民芸術概論」は塩見さんのブログで気になっていました。来週、綾部に行った時に僕も入手できればいいのですが。

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