2011年3月30日水曜日

文脈日記(善いことを決意すること)

アンガージュマンするのは今だ、と書いた一ヶ月前が遠い昔に思える。
3,11で世界は否応なしに変わってしまった。
まずは亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。そして被災された方にお見舞い申し上げます。
そのうえで、僕は自分への応援演説であるこのブログを書き続けなければならない。

アンガージュマンとエンゲージメントは同じ、ENGAGEMENTだ。
広告業界では「企業と生活者のエンゲージメントが新しい消費行動の鍵だ」というような文脈で語られている。
ところがアンガージュマンは少しちがう。
【アンガージュマン】フランス engagement
関与・拘束の意。フランス実存主義の用語。
状況に自らかかわることにより、歴史を意味づける自由な主体として生きること。サルトル・カミュなどでは、さらに政治的・社会的参加、態度決定の意味をもつ。(大辞林より)
1968年頃、この言葉は「自己投企」と訳されていたような記憶がある。
ごちゃごちゃと理屈をこねるのはやめて、言葉をもてあそぶのはやめて、まずは行動すること。
全共闘が華やかなりしときには、そのような文脈でアンガージュマンが語られていた。
アンガージュマンを大和言葉で表現するとどうなるのか、と質問をしてきた団塊世代がいた。僕の答えは「いてまえ!」だった。

2011.3.11後の世界にアンガージュマンするのは正直、しんどい。
自分を鼓舞するためにコンテキスターは、また文脈を接続していく必要がある。

今、僕の視座にはひとつの詩がある。
美しいものに驚くこと
ほんとうのものを守ること
気高いものを敬うこと
善いことを決意すること
半農半X研究所の塩見直紀さんから原田基風(ボブ)経由でいただいたルドルフ・シュタイナーの言葉が今の僕のよりどころになっている。


ポスト3.11でも一歩もぶれずに「半農半X」の伝道者でありつづける塩見さんのブログに癒やされなければやっていけない日々が続いている。
そもそも「田中文脈研究所」という屋号も「コンテキスター」という肩書きも塩見さんにインスパイアされて決めたものだ。
その塩見さんのブログに当研究所のことが紹介された。ありがとうございます。
善いことを決意すること
この状況にアンガージュマンするためにはそれなりの決意が必要だ。

3.11直後から僕はツイッターに貼りついた。
被災地や原発に関するコンテンツが錯綜するなかで、「自分に何ができるのか」を考えつつタイムラインに流れてくる情報の仕分けやRTを繰り返していく。

僕程度のフォロワー数の者が必死にツイートしても世の中全体に対しては影響力を持たない。
でも、少なくとも僕をフォローしてくれている人々には客観的(と僕が主観的に思う)情報を流したい。今の僕はテレビとネットに貼りつける環境にいるのだから。
そんな思いから、僕のしたことは主に福島原発に関して、NHKテレビで流れてくる情報とUSTで流れてくる情報をテキストにしてつぶやくことだった。
さらに、ぶれない発言をしている人を見極めて、その人の情報ソースを確認して自分が納得できればツイッターとフェイスブックに流していった。

家族からは「お父さんはなにかに取り憑かれたみたいだ」と言われた。
その状況は今も変わっていないが、このエントリーを書くことによって少し憑きものを落としたい。

何に取り憑かれたのか。文脈の接続に取り憑かれたのだ。
気がつけば、それが「キュレーション」ということだった。


「キュレーションの時代」という佐々木俊尚さんの本は購入していた。紙ではなくePUBとPDFで。iPadに格納して読めるようにしていた。このエントリーを書くにあたってようやく読了した。しかもiBooksで。実は3月の文脈研究は「電子読書の快楽」にしようと決めていた。
それはまた宿題にしておこう。
ポスト3.11では書籍のあり方も変わるような気がする。

話がそれた。

佐々木俊尚さんの著作には「文脈とコンテキスト」がよくでてくる。その論旨は明快でいつも参考にさせていただいている。

僕が今も継続しているコンテキスター業務は間違っていないと思う。
それはささやかながらもキュレーション業務でもあったのだ。
以下、「キュレーションの時代」から引用させていただく。
キュレーション【curation】
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。 
(キュレーションにおける)視座とは、どのような位置と方角と価値観によってものごとを見るのかという、そのわくぐみのことです。 
言い換えれば、視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその〈視座=人〉にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。 
この「視座」を提供する人は今、英語圏のウェブの世界では「キュレーター」と呼ばれるようになっています。
そしてキュレーターが行う「視座の提供」がキュレーション。
僕のキュレーションなんてたかが知れている。
でもキュレーションという行為はカリスマとかアルファーとか言われる人が独占的にやる行為ではない。

無数の名もなきキュレーターがポスト3.11の世界では必要になると思われる。
僕はそのひとりでありたい。
「情報と関係の善循環」を回し続けるためには彼らのタコツボ化していないネットワークが必要だ。

佐々木さんによれば「タコツボ化」の反対語は「セレンディピティ」というそうだ。
また引用させていただく。
セレンディピティというのは「偶然幸運とぶつかる力」という意味の英単語で、ネットの世界では「自分が探していたわけではないけれども凄く良い情報を偶然見つけてしまう」というようなニュアンスで使われています。
僕が以前のエントリーで書いた「情報循環説」というのはこういうことだと思う。
ただ、今の僕は「凄く良い情報を見つける」のは偶然ではないような気がしている。
すべては必然的な関係性の善循環によるものだ。
無名キュレーターたちがその循環のエンジンになっているのは間違いない。
ポスト3.11を支えるのは彼らだ。

ポスト3.11がどうなるのかは予断を許さない。
福島原発は永遠に現在進行形で過去完了になることはないだろう。

原発問題に関して、僕は原子力資料情報室、後藤政志さんの視座にチェックインしている。後藤さんがキュレーションしたこと、そして彼の表情が物語ることに寄り添っている。


ポスト3.11は「国破れて山河なし」だと原田基風(ボブ)は喝破した。
そこが1945年との大きな違いだ。

僕のポスト3.11へのアンガージュマンは膨大な情報と格闘することから始まった。
そして、今日、この時点でこのエントリーを書いたことが次のアンガージュマンだ。

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