2014年11月29日土曜日

村上春樹とコンテキスター

僕は村上春樹に会ったことがある。一度だけ業務上の都合で。
1990年頃だった。そのことについては書かない。まあたいした話でもないし。
そして、僕はピーターキャットのコースターを持っていた。ピーターキャットというのは、春樹が小説家になる前に千駄ヶ谷で営んでいたジャズバーの名前である。
それはある人にプレゼントしたので手元にはない。元々は村上夫妻と親しいCMプロデューサからもらったもので、僕自身がピーターキャットに行ったわけではない。


小説家と僕のリアルな関係は希薄なものである。
それでも夢想することがある。

村上春樹は1968年から1975年の間、早稲田大学第一文学部に在籍していた。
僕は1970年から1974年まで、その大学の違う学部にいた。
もしかしたら、キャンパスですれ違ったことがあったのかもしれない。

文学部は大隈重信の銅像がある本部とは少し離れた場所にある。
そのキャンパスにある長いスロープ。コンクリートの坂を昇らないと校舎にはたどりつけない。
坂の途中には無数のタテカンがある。タテカンは立て看板の略。当時の大切なコミュニケーションボードであった。大きくて太い肉感的な文字で「安保粉砕、斗争勝利」と書かれていたはずだ。赤文字からは血のような墨汁が垂れていることもあった。

タテカンに囲まれて僕はスロープを昇る。たまには文学部の学食で昼飯を食おうと思ったのかも知れない。
降りてきた学生がいた。ステンカラーのありきたりなコート。髪は短い。本とレコードを抱えている。
目が会った。18歳の僕は21歳の彼が持っている本とレコードを見る。
それは庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』ではなかった。それはビートルズの『ラバー・ソウル』ではなかった。それらは僕の知らないものだった。
僕と村上春樹の間にコミュニケーションはなかった……。

このようなことを想像したのは、春樹と僕の文脈を探っていたとき、新しい発見があったからだ。早稲田大学でも文脈は繋がっていた。

「問題はひとつ。コミュニケーションがないんだ!」
これは春樹が「ワセダ第9号」という学生誌に寄稿したエッセイのタイトルである。
早稲田大学出版事業研究会が1969年に発行したものだ。

出版事業研究会、出研(しゅっけん)!
大学生時代に授業にはほとんど出なかった僕にとって、早稲田大学とはすなわち「出研」であった。

1970年の4月に出研に入った僕は「ワセダ第9号」を見た記憶がない。今、僕の手元には「ワセダ第10号」があるだけだ。



考えてみれば、春樹が「ワセダ」に寄稿していても不思議はない。
当時の出研には春樹と同じ学生寮に住んでいた編集者がいたからだ。
この事実を僕に教えてくれた『村上春樹と小阪修平の1968年』(とよだもとゆき/新泉社/2009年)から引用してみる。
冒頭「何だか映画の評論を書けっていうもんで下宿に寝転がって煙草を三本吸う間考えをめぐらしてみたものの、バカバカしい程何も出て来ない」とあるから、編集部の知り合いからでも依頼されたのだろう。 「'68年の映画群から」とサブタイトルが付けられているとおり、映画について書かれたものだ。スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』、高倉健の網走番外地シリーズもの、ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』、マイク・ニコルズの『卒業』、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』、キャロル・リードの『第三の男』、黒澤明の『野良犬』、ルイズ・ギルバートの『アルフィー』、今村昌平の『神々の深き欲望』など、その当時封切られたものや過去の映画を取り上げながら、現代のコミュニケーションの困難性について軽いタッチで書いている。(P54)

「コミュニケーションがないんだ!」というタイトルは1969年の村上春樹の根本命題を言い表しているのだろう。
あの時代については当研究所の「草莽の士、高橋公さん」も参照してほしい。ハムさんは映画『ノルウェイの森』の〝早稲田大学時代考証〟でクレジットされていた。

「コミュニケーションありやなしや」という文脈で春樹の今にワープする前に、もう少しコンテキスターとしてのパースペクティブで僕と彼の関係を見ていこう。

ハルキとサヌキ、という文脈がある。
『辺境・近境』という村上春樹の旅行記は、文脈家の僕にとって重要な文献だ。
発行は1998年。この頃、春樹はすでに世界のハルキになっていた。

その中に「讃岐・超ディープうどん紀行」という一章がある。
朝っぱらから石の上に腰掛けてうどんをずるずるとすすっていたりすると、だんだん「世の中なんかもうどうなってもかまうもんか」という気持ちになってくるから不思議である。僕は思うのだけど、うどんという食べ物の中には、何かしら人間の知的欲望を摩耗させる要素が含まれているに違いない。(P122)
へへへ、確かにうどんには、そういうところがあるかもしれない。お椀を伏せたような山がぽんぽんとあるだけの穏やかな狭っ苦しい平野で、うどんをすすっているときには、確かに、コミュニケーションがなんぼのもんじゃ!という気分になってくる。ちょっと哀しい話であるが。


めげずに知的欲望をこね回すために、僕はハルキが絶賛した「なかむら」に行ってみた。ネギは裏の畑から自分で取ってきたという伝説のうどん屋である。僕の坂出の家からは近い。

猫がいる。うどんをすすっているとみゃあーとすり寄ってくる。なるほど、猫好きのハルキなら、さらに知的欲望を鈍化させる風景になっている。


断っておくが、僕はマルキストではないのと同じくらいハルキストではない。そもそもなんちゃらイストであることを否定する傾向があるから、ハルキの書くものに共感できるような気がする。
これ以上、ハルキとサヌキの文脈に踏み込むのはよそう。


この紀行文が上梓された4年後、ハルキは『海辺のカフカ』という長編小説を書いた。
その舞台は香川県高松市。温暖な土地で不条理な物語が展開される。
ハルキはうどんで知性を(う)鈍化されるのに抗いながら、この小説の構想をこねていたのかもしれない。

ハルキストではないのだが……ひとつだけ。
文脈研究所でかつて書いたレポート「讃岐のカフカ」の後日談を。
『海辺のカフカ』の舞台である甲村図書館のモデルは、やっぱり坂出の「鎌田共済会郷土博物館」なのだろうな。最近、ここに初めて行ってみて確信した。


そして、『辺境・近境』の旅は、讃岐平野からモンゴルの草原に抜けていく。
白紙を1ページ挟むだけで「ノモンハンの鉄の墓場」へ。
白いうどんは白紙の壁を抜けたら白酒(パイチュウ)に変わった。


ノモンハン事変、というか戦争。1939年「満州国」とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、大日本帝国とソビエト連邦の間に起こった苛烈な殲滅戦。
1994年、ハルキが草原を訪れたとき、戦争の跡は乾いた風の中で風化されることもなく鉄片をばらまいていたそうだ。

ハルキは『ねじまき鳥クロニクル』という長編でノモンハン戦争を描いている。

「死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン」(作中人物、本田さんの言葉)


ここには、ハルキと中国という文脈がある。彼の父は中国に出征していた。
ハルキは、ほとんど個人的な周辺情報を語らない。
しかし、2009年9月25日のエルサレム賞受賞スピーチ、『壁と卵』では、父のことを語っていた。
私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食の前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。 
中国の戦場というのは満州だったのかもしれない。
『ねじまき鳥クロニクル』には、当時「満州国」の首都であった新京の動物園における中国人の虐殺が描かれている。

高校の古文の先生であった村上千秋さんが、どのような死に向き合ってきたのかは誰にも分からない。
ただ、中国という文脈がハルキの魂の襞にまとわりついているのは確かだ。手打ちうどんにはたっぷりの打ち粉が降りかかっているように。

中国=「満州国」という文脈を考えるときには、歴史を正しく認識する、という軸が必要である。僕はそう考えている。そうでなければ広大な大陸を覆う死の影たちに失礼だ。

ちなみに僕の父や母、親戚たちも深く「満州国」と関わっている。満州の文脈は研究ずみである。

「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」というセリフが最新長編の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に出てくる。

記憶を隠すことが巧みで歴史を変えることを望む内閣総理大臣が跋扈する昨今、ハルキはこんなことを言っている。
僕は日本の抱える問題に、共通して「自己責任の回避」があると感じます。45年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていない。そういう気がするんです。例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない。もちろん加害者と被害者が入り乱れているということはあるんだけど、このままでいけば「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった」みたいなことで収まってしまいかねない。戦争の時と同じように。それが一番心配なことです。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
歴史を正しく認識して自己責任を自覚するという地ならしをしたところにしか「魂の行き来する道筋」は開かれないのだろう。

2012年、尖閣諸島の国有化に際して中国の書店から日本の書籍が消えたことがある。その事態を憂えた小説家は朝日新聞に「魂の行き来する道筋」というエッセイを寄稿した。
文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。 
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。 
「朝日新聞」(魂の行き来する道筋/2012年9月28日)
「安酒の酔い」とは、端的に言えばヒトラーが使った手口だ。
領土問題で国民感情を煽り頭に血を上らせて人々の粗暴な言動を誘うタイプの政治家には注意したい、とハルキは警告している。
このエッセイが書かれた時点では、野田首相だった。
2014年11月現在、安倍首相は酒も飲めないくせに、安酒を気前よく振る舞い、日本人の知正を麻痺させている、と僕は思う。


村上春樹の小説は中国、韓国、台湾で大学生を中心に幅広く読まれている。また東アジア文化圏内の若手作家に大きな影響を与えているそうだ。

実際、僕が会員になった「北浜現代中国文学読書会」では、「村上春樹メニュー」をつくる上海の美女が登場する短編小説を紹介していたりする。
そこには、美味なる中華料理が溢れる上海で、「キュウリとハムとチーズのサンドイッチ」をつくるアイロニカルなシーンが描かれている。(『白水青菜』藩向黎)

自分の作品のアジアにおける読まれ方について、ハルキはこう語っている。
これ(欧米)に対して、日本以外のアジアではストーリーの要素が大きい。ストーリーラインのダイナミズムに読者は自然な魅力を感じるのかもしれません。また、ある種の小説的ソフィスティケーション(洗練)、登場人物のライフスタイルやものの考え方に対する興味もあるみたいですね。「何とかイズム」みたいなことはあまり関係ない。例えば、僕の作品で主人公が井戸の底に座っていて石の壁を通り抜けてしまうといった場面を、欧米人は「ポストモダニズムだ、マジックリアリズムだ」みたいに解釈するけど、アジアの人は「そういうこともあるかもな」と自然に受け入れてしまう(笑い)。アジアでは荒っぽくいえば、何がリアルで何が非リアルかは表裏一体なんです、日本でもそうだけど。そういう物語の風土の違いは確かにあると思います。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「東アジア(魂の)文化圏」は、村上春樹の文脈では深く静かに広まっている。
大陸の最高責任者にそっぽを向かれた、列島の首相の思惑とは関係なく……。

魂のバイブレーションは国境を越えて伝わる。
ハルキが小説を書く理由は「個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てること」なのだ。「壁と卵」スピーチで、そう語っている。
小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。
魂の有り様を描くとき、小説家の魂は振動して読者の魂に伝わる。
特に東アジアにおいては、欧米的ではない自然体の魂というベースがあるので、伝導率が高いのかもしれない……。これは僕の仮説であるが。


1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件を契機として、村上春樹は「デタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)へ」と作風を変えていった。

デタッチメントは、1968年にコミュニケーションを巡る暑苦しい冒険をした村上春樹にとって自己防衛のための生活の知恵だったのだろう。
そこから再びコミットメントを始めるために、小説家は深い井戸を掘り、底に降りる必要があった。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。 
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫P84)
いっしょにスクラムを組んでデモしようぜ、それシュプレヒコールだ! などという脳天気なコミットメントではない。
村上春樹は、徹底的に想像力を鍛錬してから壁を抜けたのだった。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」とコミットメントした村上春樹。
最近のインタビューでは、「孤絶」を極めないと壁は越えられない、と提言している。
いったんどこまでも一人にならないと、他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「コミュニケーションがないんだ!」と20歳のときに嘆いた青年は、現在、65歳。
ハルキは深い井戸に降りていき、また昇ってくる体力を身につけて、「魂が行き来する道筋」に物語を送り続けている。

それでも彼にとって、ある種の壁はまだ抜けきれてはいないようだ。中国という壁。

村上春樹が父から伝達された中国=「満州国」文脈について、ハルキの長年の読者である内田樹は以下のように推論している。
村上春樹における「中国」とは、「飲み込むことができないもの」なんです。自分は「中国」を飲み込めない、咀嚼(そしゃく)できないと。どうしても「中国」を飲み込めないトラウマ的な核がある。トラウマというのは、それを記述する言葉がない「虚の経験」のことですから、「それについて」書くことができません。できるのは「それが書く」ことだけです。その「虚の経験」そのものが、村上春樹という書き手をおしのけて、自分が語り出すというかたちにする他に、この「飲み込めないもの」が何なのか、どのような機能を果たしているのかは、わからない。
この長く、個人的な苦闘が村上春樹の文学的営為のひとつの通奏的な主題をなしているように僕には思えます。 
『街場の文体論』(内田樹/ミシマ社/2012年)P291
村上春樹の小説群が、中国大陸で広く受け入れられているのは事実である。読書の側からの壁は抜けているのかもしれない。


早稲田大学、讃岐、満州、そして「非現実的な夢想家」、僕とハルキの文脈は繋がっているようだ。一方的に、こちらからそう思っているだけだが。

村上春樹と違って、僕にはまだ咀嚼できないものが多数ある。
あたりまえだ。僕には孤絶する訓練が足りない。
それでもハルキ先輩のあとに続いている、と確信できることがある。
何よりもまず「忘れないこと」。忘れないことは僕にも自信がある。
でも、僕にはうまく表現できないのだけど、どんなに遠くに行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。でも少なくとも僕はそれらがそこにあり、あったことを決して忘れないだろう。忘れないこと、それ以外に僕にできることはおそらくなにもないのだから。
『辺境・近境』(ノモンハンの鉄の墓場/P230)
僕は僕の1968年を忘れないし、1932年から1945年まで中国東北部にあった「満州国」で何が起こったかを忘れない。父も母も忘れたことがない。自らのソウルフードであるイリコ出汁のうどんの味も忘れたことがない。村上春樹の新作小説を予約することも……。

忘れないこと。それが壁を抜けていくための出発点だと思う。

壁は2014年11月現在、厳然として世界中に存在している。
日本列島においては「無関心(デタッチメント)」という壁である、と僕は思う。
他者の痛みに対して想像力を持たない無関心。「愛の反対は無関心」。

自分勝手な理由で総理大臣が解散権を行使しても、多くの人々は選挙に無関心に見える今日この頃。僕はなんだかとても悲観的である。

ところが、村上春樹は出発点でうろうろしている僕とは関係なく、はるか先に行こうとしている。

ハルキは、彼らが1968年に持っていた理想主義を新しい形に変換して若い世代に引き渡すことを追求し始めたようである。
僕らの世代は60年代後半に、世界は良くなっていくはずだというある種の理想主義を持っていました。ところが、今の若い人は世界が良くなるなどとは思わない、むしろ悪くなるだろうと思っています。もちろん、それほど簡単には言い切れないだろうけど、僕自身はある程度、人は楽観的になろうという姿勢を持たなくてはいけないと思っています。
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
柔らかい魂を内包した卵が壁をしなやかに通り抜けることができたら、世の中はいい方に向かっていくはずだ。
それは、最後の一葉が落ちても(根っこがしっかりしていれば)新芽は必ず生えてくるのと同じくらい楽観的な事実である。

文脈家だって、忘れないことから出発して井戸を掘り続けたら、いつかは豊かな水脈にたどりつくことができるかもしれない。静かに楽観しながら、手を動かし続けていくしかないな。

タフでなければ生きていけない、楽観的でなければ生きている資格がない。



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