2014年3月30日日曜日

文脈日記(今井書店物語)

書いて読んで耕して釣っているうちに、すっかりおろそかになったことがある。
映像編集の修行である。師匠の手ほどきで基本的なカット編集とタイトル入れができるようにはなっている。だが、映像編集ソフトのプレミアは、間隔が空くとすぐに操作方法を忘れてしまう。このあたりが62の手習いの悲しさだ。

悲しんでばかりいてもしかたがない。この種のテクニックはマニュアルを読むよりも身体で覚えるしかない。すなわち、プレミアを触り続けるしかない。
師匠には「杏奈ムービー」を仕上げます、と宣言したのだが、いっこうに進展しない。それどころか、二人目の孫、隆之亮まで出現して、映像素材は増える一方なのに編集はまったくできていない。
すでにオールラッシュ(撮影全素材)は2時間を超えているような気もする。
見るのが怖い。可愛すぎて見るのが怖い。この可愛い映像を編集してくれ、と迫られるのが怖い。

などと、また横道から話が入っている。
では本題の始まりです。まずはムービーから。



2月3日、僕は鳥取県米子市の今井書店発祥の地に行った。今井書店グループの永井伸和会長に会うためだ。
すっかり遅くなってしまったが、今井書店のことを書いてみたい。

永井会長を訪問したのは『上山集楽物語 限界集落を超えて-』(吉備人出版)の書店営業が目的だった。共同著作者として、鳥取と島根に24店舗を構える今井書店グループの店頭に本を置いてもらうお願いをしたかったのだ。

永井会長を知るきっかけになったのは、2012年の「ブックインとっとり」で、『愛だ!上山棚田団』(吉備人出版)が第25回地方出版文化功労賞を受賞したことだった。
この表彰式でスピーチをした棚田団出版プロジェクトリーダーである原田ボブは、永井会長との出会いを以下のように書いている。
表彰式・受賞スピーチを終え、ブックインとっとりの関係者の皆様との懇談会。ここで、この団体の凄さを垣間見ることになる。実行委員長の小谷寛さんは地元のお菓子屋さん、自ら「鳥取飯酒」と名乗り、気取りのない誰とでも楽しいお酒を飲む方だった。その小谷さんに地方から、本に纏わる文化運動を興そうと呼び掛けたのが、地元の書店グループの会長・永井伸和さん。お二人の話を聞いているうちに、行政主導の文化イベントという印象であったボブは、ブックインとっとりが全くの草の根型運動であったことを知る。出版と言えば東京一極集中という常識を覆し、地方と地方が本を仲立ちとして結びつく。その思いが賛同する仲間を呼び、たがいに刺激をもらいながら四半世紀続いてきたのがこのブックインだった。
『上山集楽物語』草稿より

このときに、永井会長からもらった「本との出会いは本当の出会い」という言葉は、ともに本好きの僕とボブの胸のうちに格納されていた。

棚田本第二弾が発刊されると同時に、僕は永井会長に献本して米子訪問のアポをとる。
今井書店は僕にとって、とても近しい存在だった。僕の山の神(妻のこと)の実家は、松江の野津旅館である。
今井書店は松江市内で本を求めるときに、必ず行く本屋だった。米子は松江から東へ約35㎞。隣町だ。

米子市尾高68の今井書店は江戸時代の建造物だった。年季の入った看板がかかっている。
開業は、明治5年(1872年)、142年前のこと。
♪汽笛一声新橋を~♪、と日本初の鉄道が正式営業を開始した年である。




この店舗は今でも現役で、活字文化博物館のような展示がされている。
懐かしいガリ版まで見せてもらった。この日は一日中、活字中毒者である僕はテンションが上がりぱなしだった。

テンションが上がった理由はもうひとつある。
田中文脈研究所のレポートを永井会長はかなり読み込んでくれていた。
最近、僕が書いた「本の未来」「昭和27年生まれの私的メディア論」というエントリーを読んだ会長は驚いたという。

僕がメンションしていた富田倫生さん、萩野正昭さん、津野梅太郎さん、濱野保樹さんたちは、永井会長と周知の仲だったのだ。

彼らはいずれも「大山緑陰シンポジウム」の参加者だったという。

「緑陰」という言葉に、僕は無条件に惹かれる。木漏れ日の光、夏の風。
その「緑陰」が名峰「大山(だいせん)」にある。
しかも「シンポジウム」だ。「シンポジウムとは参加者が夜を徹して飲むことだ」とブックインとっとり実行委員長の小谷寛さんは言っている。

「大山緑陰シンポジウム」は、世紀末の1995年から1999年まで今井書店グループの実習研修店舗『本の学校』の主催で開かれた。

『本の学校』の三原色は「生涯にわたる読書の推進」「出版界や図書館界のあるべき姿を問うシンポジウム」「業界書店人の研修講座」である。
その三原色で描かれたのが「大山緑陰シンポジウム」だったという。
著者から読者まで、出版界、図書館界、教育界、マスコミ界と垣根を越えた横断的な二泊三日の合宿シンポジウムに延べ2000人が集い、5冊の記録集を残している。



1995年といえば、日本のインターネット元年である。まさに「揺らぐ出版文化」が始まった年だ。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件もあった。
今に至る「電子書籍」の流れも水源が構築された頃である。

このようなシンポジウムが東京ではなく、地域を起点としたムーブメントとして起こっていたのだ。
まさに「知の地域づくり」。

永井会長は言う。
初代・今井兼文(芳斎)が米子市に「今井郁文堂」を開業したのが今井書店のルーツです。長崎の鳴滝塾で蘭学を学んだ医者です。学制発布の明治5年に40何歳かで本屋を開業したのですが、最後の仕事は世界を見てしまったんですね。これからは本当に知識が必要だという認識で、本屋を始めたということです。そういうDNAが私にも流れているわけですが、その中で、やはり私は地域にこだわるんですね。それも電子図書館か、電子書店かという話の一方で、便利なものは使えばいいのですが、やはり本は基本的には五感六感で接することが大切だと思っています。「リアル、出会い、空間」、これがまた地域というものになければならないと思っています。地域の一つの生活圏の中になきゃいかんという思いを強く持っています。

地域おこしは、田んぼの耕作放棄地をなくすことだけではない。知の不毛の解消を東京からではなく地域から仕掛けていくこと。永井会長の主張は明確である。

ちなみに、彼は総務省で「地域おこし協力隊」と深く関わった椎川さんや「里山資本主義」の藻谷浩介さんとも知己である。

商業便覧 明治20年4月 大阪龍泉堂
創業者、今井兼文の凄味は、書店だけに留まらず印刷所まで起こしたことだった。
明治17年(1884年)、書肆の隣に今井印刷工場を開設。

「書店は知識文化の普及発展に寄与しえても、創造はできないと考えて、書籍の販売だけでなく、書籍そのものをつくる印刷出版事業を起こしたのです。現在の言葉でいえば、情報を受けるだけでなく、情報の発信をしなければ地方文化は育たないと考えたのです」と今井書店の由来紹介文書にある。

僕は、今井書店には慣れ親しんでいたが、今井印刷のことはまったく知らなかった。
そんな僕を永井さんは今井印刷に連れて行ってくれた。
米子空港のすぐそばにある美しい敷地。エントランスロビーに展示されているハイデンブルグの活版印刷機にはステンドグラスからの光が射し込む。


「進化に深化を重ねてきた、私たちのスキルに真価がある」という企業理念に支えられた知の生産工場を見て、僕はまた興奮してしまった。

なにしろ活字中毒者がはじめて活字が紙に定着する現場を見たのだ。

どんなにデジタル化が進んでも「活字」中毒者は、あくまでも「活字」だ。
不思議なことに「フォント」中毒者とは言わない。
あるいは、自分の文章が「フォント」になる、とも言わない。


「創業時より印刷にかける不屈の気骨を受け継いでいる」工場の現社長は田淵康成さん。現場からたたき上げた人で剣道の達人だそうだ。



「なるほど剣道ですか。だからこの工場は間合いがいいのですね。デジタルとアナログの間合いが絶妙ですものね」と僕は言った。
この工場では、デジタル部門とアナログ部門のバランスが素晴らしい。

ずらりとマックが並んだ部屋の奥には、最新のオンデマンド印刷機がある。データを放り込めば、5分ほどで本が出来上がるのだ。
大きな出版の仕組みをくるくる回さなくても、地域の思い、わたしとあなたの主張は活字になることができる。



デジタルルームの先には、アナログ印刷機が律儀に知を紙に打ち込んでいる。

「美しい印刷のためには、印刷機が最上のレベルで稼働できるよう、日頃から入念に保守することが重要です。インクの腹圧、ローラーの摩耗調整など、見過ごしがちなところをとくに丹念に調整する。そのごくあたり前のことが、美しい印刷を左右する。それが私たちの長い経験の中で、身につまされて学んだことでした」
会社案内にあるとおり、職人気質の筋が一本、通っている感じがした。



製造工程だけではなく、古典コンテンツの発信でもアナログとデジタルの間合いは、図られている。
「訓注明月記」、この重厚なコンテンツの修訂版は電子書籍になっている。


知の世界で、もしも地方と中央の間に壁があるなら、デジタルを使えば軽々と超えられるはずだ。地方の豊かな知を東京に流すのも容易になるだろう。


それから、永井さんは僕を「本の学校」に誘う。
ここでもグーテンベルグに出会う。600年の時を経て、彼の志はしっかりとこの空間に根付いていた。


ギャラリーもカフェも研修室も談話室もすべてが「知の地域づくり」のために……。
今井書店グループは、「知のワンストップサービス」なのだ。

本の過去から未来がリニアにつながっている。本を巡る良心もつながっている。
製造から販売まで、学校から広報まで、一貫して本のための活動をしている。


2012年3月にNPO法人となった「本の学校」の初代理事長も永井伸和さんである。

彼は、今の自分の立場を「ゴミ拾いみたいなものです」と謙遜されている。ところが、このゴミは誰かが拾っていかないと、この国の未来が大変なことになりそうだ。
反知性主義に対抗するべき若いキャプテンたちは、水路をふさぐゴミに行く手を遮られてはならない。


米子に行った翌日、松江は大雪だった。雪を振り払いながら、僕は今井書店殿町店に入る。ここも素敵な棚つくりをしている本屋だった。

電通にいたときと較べると圧倒的にリアル書店に行くことが少なくなっている僕にとって、この2日間の今井書店巡りは至福のときだった。



今井書店グループセンター店の岩波書店フェアーで見つけた一冊。
『「大東亜戦争」期出版異聞』(小谷汪之/岩波書店2013年)
こんな本との出会いは、プル型でAmazon暮らしをしていてはあり得ない。


表現の自由を奪われ、出版が検閲される世の中がどんな悲惨な結果をもたらすかは、歴史が証明している……そのはずだった。

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります」
ナチスドイツの犯したことを直視したヴァイツゼッカー大統領(ドイツ連邦共和国)の言葉を理解しない首相が存在する国の未来は危うい。

今井書店で出会った一冊は、このような文脈で締めくくられている。
戦争ごっこの好きそうなお坊ちゃま宰相の「再臨」という薄闇のような時代を迎えた今、戦前・戦中の時代を粘り強く生き抜いた、彼ら「在野」知識人たちの生き方は、私たちにある大きなものを遺してくれている。それは、どんな時代にあっても、人は譲ることができないものを心中に持しながら、柔軟に、しかしまた、したたかに生き続けなければならないということである。
「譲ることができない」正しいことを知る態度、「知正」を守るために、僕も永井会長の後ろでゴミ拾いのお手伝いがしたくなった。

世界中のすべての本好きのために……と言うと、なんだか頭でっかちのインテリちゃんのように聞こえるのかもしれないですね。
でも、僕のお手伝いは、身体が動く限り、現場至上主義でいきたい。
本を読み、現場に行って、自分の目で見て耳で聞いたことを情報発信していく……何をどこまで伝えられるかは分からないが、コンテキスターとして微力を提供すること。

ということで、明日からは福島市、南相馬市、飯舘村に行ってきます。今回のガイドブックは『復興の書店』(稲泉連/小学館)


本屋というのは神社の大木みたいなものでね。伐られてしまって初めて、そこにどれだけ大事なものがあったかが分かる。いつも当たり前のようにあって、みんなが見ていて、遊んだ思い出がある場所。震災が浮かび上がらせたのは、本屋は何となくあるようでいて、街の何かを支えている存在なのだということなのではないか。(P127)
311の直後から、人々は食料や水と同じように「活字」を求めたという事実がある……。


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