2015年7月27日月曜日

『国つ神と半農半X・六月篇』

梅雨は明けた。戦後70年間で一番熱い夏が来た。
時代の分水嶺が見えてきている。あっちに流れるのか、それともこっちに引き戻すのか。

僕は1952年生まれの「戦争を知らない子供たち」だ。高度成長の恩恵を目いっぱい受けて育ってきた。その子供や孫たちを「戦争しか知らない子供たち」にするわけにはいかない。
僕は戦争法案に反対する。
反対の意思表示はさまざまな方法と形態があるだろう。
コンテキスターは政治運動のみならず、「生き型」運動としても戦争に反対したいと思う。

半農半Xは農業の指南書ではない。兼業農家の経営指標でもない。それは「生き型」なのだ。分水嶺で明るい方に水が流れ出すための思想であり言葉であり、新しい倫理と規範なのだ。

あらためて、「半農半Xという生き型」の定義を書いておこう。
持続可能な農的生活をしながら、わたしとあなたの使命多様性を認めて、X=天職を探していくこと。 
地に足をつけて、X=関係性を回復していくこと。 自分と社会、自分と自然、自分と他者の関係性。
地に足がついた思索と言葉で、世の中をいい方向にインスパイアしていくこと。
農的幸福と戦争は相反する。僕は島根県雲南市で、こんな石碑を見た。
この鉄砲が牛蒡(ごぼう)であったらナー。とにかく兵隊よりも野菜作りの方がよいヨ 。
戦地よりの手紙 景山龍一1938年5月2日 中国山東省にて戦死 21歳。

さて、国つ神に導かれて新しい生き型をしている人たちの文脈研究を続けよう。
タイムラインは5月31日まで遡る。

「葦原(あしはら)の中つ国」では田植えが始まった。
5月31日。出雲イセヒカリ会と「ゆめの国こども園」の合同田植え。出雲市荒茅町。

まずは御田植祭。田んぼの横に祭壇が組まれて、長浜神社の宮司が祝詞を唱える。
あつかましくも僕まで玉串奉納をさせていただいた。ありがとうございます。


水があまり深くない自然栽培の田んぼには、土に直接、筋が引かれている。この筋引きはどのくらいの時間をかけてやったのだろうか。
イベントとしての田植えは楽しいが、その実現には地道なスタンバイが必要なのだ。


イセヒカリの葉は自然な緑色をしている。そして根は長い。




走り回る子供たちを横目で見ながら、手練れの大人たちは植え続ける。手植えは人数がいれば楽しい。決して楽なことではないが。



僕は田植えの途中で失礼をする。松江に戻って映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』の上映会に参加するためだった。

『つ・む・ぐ』は骨太のドキュメンタリー映画だ。

たての糸―それは、タイ東北部の村で織られる布。  
よこの糸―それは、歩き出すことを決めた人たち。 
いのちの輝きを織り上げる物語が今はじまる。
出演者はファッションデザイナーのさとううさぶろう。医師の船戸崇史。そして歌手のYae。

♪愛をより 想いをつむぎ 子々孫々に 命の絆つなげよう~

監督の吉岡敏朗さんは松江の出身だ。この上映会は監督の兄上を始め関係者が手作りでつくりあげたものだった。

映画上映後、いのちの縁(えにし)が綾なしている会場で吉岡監督と半農半歌手Yaeさんの対談が始まる。


Yaeさんの父上は農的幸福論の老舗「鴨川自然王国」の創設者である藤本敏夫さん。
母上は、満州の風をその唄声に乗せている永遠の反戦歌手、加藤登紀子さんだ。


Yaeさんは千葉房総半島での暮らしをこう語る。

父は遺言を残しませんでした。でも、その父が死にゆく姿を見ていたら〝生きることは食べること〟だというのが伝わってきたのです。そして〝生きることは楽しいこと〟です。〝楽しいことは正しいこと〟です。だから私は鴨川で食べることを守りながら唄を歌うことにしたのです。決してスローライフじゃないですよ。半農半主婦はとっても忙しいのです、農と子育て。鴨川は天水田んぼなので、雨が降らないと大変です。私は唄を歌うので雨乞いしたりして。唄ってそういうふうにして農村から始まったのじゃないでしょうか……。


Yaeさん・鴨川自然王国にて
藤本敏夫さん

Yaeさんが暮らす鴨川自然王国のカフェEnの本棚にも『半農半Xという生き方』があった。


上映会と対談の後はYaeさんのコンサートだった。アンコールは『朧月夜』。こんな素敵な唄だったんだ。



あすの織人はあなたかもしれない……。
悦びの縁が次の時代を綾なしていく……。



コンサートの最後、Yaeさんに花束を渡した女性がいた。
三原綾子さん、あやちゃんだった。

僕があやちゃんに初めて会ったのは2014年7月12日。雲南の山王寺棚田だった。
あやちゃんは、この写真を撮ったあと、すぐに寝っ転がってしまう。
「あー、気持ちいい」と言った。



不思議なオーラを持った子だな、と文脈家はインプットしていた。

あやちゃんは、現在、雲南市の「佐世だんだん工房」を支えるスタッフのひとりだ。


『つ・む・ぐ』松江上映会の翌日、僕はこの小さなゲストハウスに行った。
吉岡監督とYaeさんの関係者一行が、ここでランチ交流会を開く、と野津健司さんにお聞きしたからだ。
佐世だんだん工房は小さなコンミューンだな、と僕は思う。
どんな共同体を創ろうとしているのかは置いてある本を見れば分かる。久しぶりに『ホール・アース・カタログ』の表紙を見た。
そこに何らかの志がある共同体のことを1970年の頃にはコンミューンと呼んでいた。


飯はかまどで炊く。笹巻きはおばちゃんたちが巻く。


そして玄米麺はあやちゃんが創った。


地元のおばちゃんたち、東アジアを含めた旅人たち、UIターン者たち、僕のような風来坊……。
この場の磁力は、陰暦10月、八百万の神が出雲に集まってくる「神有月」に最大化されるという。


素敵なご縁会のあと、あやちゃんはおばちゃんに抱きつく。


この豊かな感情表現は、どこからわき出てくるのだろうか?
翌日、僕は佐世だんだん工房を再訪して、あやちゃんを取材した。



まずは、あやちゃんの感情を支える言葉について。

しまねに帰って
1年と3か月
まだまだ
ほんの少しだけれど
自然と共に生きていると
まったく身体も自然の一部だと
実感しています
細胞がもぞもぞ動きはじめて目覚めてきて
いろいろなことが透明になってきました
その一つには
感情が表にでやすくなってきた気がします
我慢したり無理をしたりすることがなくなったかなあ
炎症と排泄と弛緩のめぐりもよくなってきていて
あ〜今は炎症期間だなあと自分のことを少し客観的に眺めてみるようになって
だから炎症をとめなくちゃーではなくて
泣いたり野草で排泄促したりして
そして緩んで
あ〜天晴れ
と思っていたらまたまたまた炎症を起こす
めぐりがとてもよくなってきた
それってまわりからはとても情緒不安定にみえるかもしれないけど
めぐりめぐる世界に
解放されてとても幸せで身体はすこぶるよくって
浄化がすすんでいて
細胞たちが
さーて目覚めるかぁーってな声もちらほら
天晴れな状態です
私の身体を愉しんでいます

2015年4月5日 三原綾子on Facebook

こういう天晴れな言葉は、どこから生まれてくるの? と訊ねる文脈家に「やまとことば」の使い手は答える。

「パートナーにいつも美しい日本語を使いなさい、と言われるのですが、まだまだですね。でも、やまとことばを使い始めてから自分にやさしくなれてきました」
「やまとことばを使いはじめたのは〝みくさのみたから〟の伝道師、飯田茂美さんの影響が大きいですね」
「やまとことばは自分自身の感情に近い言葉。自分に自信がなくなったとき、やまとことばで自分を解放できると思ってます」

確かにあやちゃんは自分を解放しつつあるようだ。近所の「オバチャンズ」を巻き込みながら。元々、喜怒哀楽が激しいという出雲属女性種のネットワークが、この場にできつつある。

「このゲストハウスに来る人たちはとても愛があるんです。シンプルに自分の欲を手放している人が集まって来ます。同じ感覚の人が自然に集まります」
とあやちゃんは言う。

文脈家は思う。シンプルに欲を手放すのは国つ神の伝統かな?なにしろ天つ神にすんなりと「国譲り」をしたオオクニヌシノミコトを祭る神社がそばにあるのだから。自然に集まるのは縁の神の仕業だな。


さて、これは半農半Xの取材だった。
半農半Xは、その言葉自体が伝播力を持っている。今や、列島を越えて東アジアにも拡がりつつある。そういえば、古来、出雲は朝鮮半島とのコンタクトポイントであった。

あやちゃんは2006年、21歳のときに半農半Xという言葉を知ったという。僕は2010年、58歳のとき。この取材を続けていると、先輩に出会うことが多い。

半農半Xが自分の望む生き方に近いと感じた彼女は、地に足をつけた思考と志向で自らの歩みを続ける。シンガポール留学、NPOの立ち上げ、半農半旅館女将の修行などなど。

なにしろ筋金入りの半農育ちだ。あやちゃんの育った家は佐世だんだん工房のすぐ近くの三原酪農。
ちっちゃな頃から手に牛のうんちがついているのは当たり前だったという。稲藁の暖かさの中でかくれんぼをしながら育ったのだ。家の周りにはじいちゃんがやっていた田んぼと畑がある。


半農半X的生き型のマナーは「センス・オブ・ワンダー」を磨くことでもある。
センス・オブ・ワンダーとは「自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性」のことだ。

その点でもあやちゃんは選ばれた人だったらしい。
「小学校の自由研究で、いらなくなったカレンダーの裏に、ヒメジオンなんかの和名とか効能をひとつずつ書きこんだりしていました。今、(レイチェル・カーソンの)『センス・オブ・ワンダー』を読んだら思い出すことが多かったですね。親は忙しすぎて遊んでくれなかったので、牛と遊ぶかひとりで遊ぶか自然で遊ぶか、だったので」

おお、大先輩のあやねえさん! 僕なんか30歳で川釣りを始めてから自然で遊ぶ楽しみを見つけたのに。

さらに、このねえさんは不思議なことを言う。ちっちゃな頃には、裏山で湖を見ていたそうだ。山に入って迷子になって湖を見た、お母さん、あったよね、湖、とつい最近話したら、そんなものあるはずないと言われた。

あやちゃんのセンス・オブ・ワンダーは、クシナダヒメのそれを受け継いでいるのかもしれない。
この姫君は国つ神夫婦、アシナヅチとテナヅチの八番目の娘にして、スサノオの山の神である。
八重垣神社の奥の森にある鏡の池で自らの内面を映した美しき姫。森の自然との一体感を楽しんだ姫。
クシナダヒメの聖地、八重垣神社は三原家から北東に11キロほどの距離である。

八重垣神社・鏡の池/トリップアドバイザー

半農半玄米麺。これが、今のあやちゃんの半農半Xのカタチである。

麺という漢字は麦で成り立っている。しかし玄米麺には小麦のかけらも入っていない。無農薬の玄米を練って馬鈴薯でんぷんと蒟蒻芋でんぷんをつなぎに使う。
自身も小麦アレルギーだったことがあるあやちゃんにとって、玄米麺は「安心安全な食べ物で次世代にいのちを繋ぐ」志を練り込んだものであると同時に、生業(なりわい)計画の切り札なのだ。


島根県の施策としての「半農半X」助成を受けるためには、営農計画と農業以外の現金所得計画を提出する必要がある。
たとえば、年間に農業で100万円稼ぎ、兼業で100万稼ぐというようなものである。その計画が承認されたら、就農前研修経費助成として12万、定住定着経費助成として12万が2年間支給される。

つまり、県の「半農半X」は島根県にUIターンした場合、どう稼ぐかの生活モデルを審査されることが条件になっているのだ。生業計画ありき、である。

ところが、本来の半農半XのXは天職であり志である。Xが生業となるかどうかは別の問題なのだ。
もちろん、Xが志であり生業となればベストマッチングなんだろうけど。おっと、やまとことばを使おう。よりよき合わせ業(わざ)なのだろう。

あやちゃんは玄米麺にこめた志を、そのまま生業に直結させたい。それにはわけがある。
祖父が始めた酪農業を継いで40年になる父の姿を見てきたからだ。世の中をよくしたいという志は必ずしも世間に認められないし、収入増に繋がるわけではない。

「父は365日働きづめです。朝早くから夜遅くまで食事を取る時間を惜しんで働いています。自然の循環のなかで牛飼いをしようと思ったら、他人の何十倍も手間がかかるのです。人間と牛の食べるものが競合しないように、ビール粕や大豆粕を独自に取り寄せていたりもします。籾殻や木くずを大量に運んでつくった牛糞堆肥は、堆肥センターに持っていかずに地域の方に分けています

父の背中は自然環境のため、地域循環のために働くことの意義と厳しさを伝えてきたようだ。
働けど働けど……三原酪農の経営者は、じっと何を見てきたのだろうか?



「生業として父のやっているような酪農を継いでいくとしたら、割りに合わないことが多いです。日本では、自然と地域のためにいいことをしても、特別に評価もされませんし、稼ぎも増えません」

あやちゃんは悩んだ。ときには怒りも感じながら。

「三原酪農の創業者は祖父でした。おじいちゃんは満州の軍隊で食料班みたいなことやっていたと聞いています。そのとき、牛乳の素晴らしさに気づいて、戦後、日本に帰ってきてからは脚気や栄養失調の人を救うため、いのちを繋ぐためのツールとして酪農を始めたそうです」

祖父の代まで遡って、あやちゃんは考え続ける。


いのちを繋ぐ、地域のために未来のために……。
自分なりに、今いる場所で、志と生業の両立させるためには、何をどうすればいいのか……。
彼女は玄米麺にたどり着いた。

「米価が安くて若い人が田んぼをしなくなった。田・畑・山がどんどん荒れていく」
という地域の方の声。
「小麦アレルギーだけど一度でいいからラーメンを食べてみたい」
という子供の声。
ちいさな集落の商品開発は、このような声を拾うことから始まりました。
安全・安心な地域のお米に付加価値をつけて必要な方にお渡ししたい。
小さく不器用ではありますが、正直につくっています。

あやちゃんは「玄米麺宣言」をした。


玄米麺の志を稼ぎとともに広めるために、あやちゃんは戦略をたてる。
売り上げの3割が個人、7割が飲食店への卸で年間100万目標!

この玄米麺は美味い。「人類は麺類」の土地柄で讃岐うどんをソールフードとして育った僕が言うのだから間違いない。


その美味さに、「いのちを繋ぐ」という志が練り込まれている。志は志を呼ぶ。

あやちゃんは、東京のラーメン店、「ソラノイロ」に「はじめまして」とコンタクトする。
縁は繋がり、東京ラーメンストリートにできた「ソラノイロ・NIPPON」のベジソバには玄米麺が採用された。
ソラノイロ店主、宮崎千尋さんも縁に惹かれて佐世だんだん工房を訪れることになった。

僕もこの「玄米麺ベジソバ」を食べに行った。野菜の甘みが丁寧に染み出ている優しいラーメンである。


あやちゃんの田んぼも田植えの直前だった。おなじみのイセヒカリに加えてハッピーヒルという品種が植えられるのを待っていた。ハッピーは「福」、ヒルは「岡」。自然農法の先駆け、福岡正信さんが固定した品種だ。



ハッピーヒルの前には、一本筋の通った生きものがいる。Xが映し出された世界に筋を通している。

「半農半Xという生き型」のプロトタイプをまたひとつ、雲南で見つけた。



三原綾子さんを取材した翌日、僕はさらにイセヒカリ田植えの助っ人に行った。出雲市野尻町。ここでも御田植祭から始まった。大歳神社。五穀豊穣を願う国つ神である大歳神を祭る。


丁寧な神事のあとはおなじみの手植えだ。参加した人たちのそれぞれの個性で田んぼに稲が放たれる。


そして、善男善女が植えた稲を見守り、実りを見届けるのは、もちろん国つ神である。イセヒカリの田んぼには笑顔と御札がよく似合う。


このようにして、国つ神の一大イベント、田植えの季節は終わっていった。
僕はこの日、国つ神の使い(?)田んぼのヒルを足につけたまま、出雲を去った。
田んぼの次の文脈は草取りと稲刈りへと移ろっていく。
熱い夏はまだまだ続く。



2015年7月1日水曜日

『国つ神と半農半X・五月後篇』

その人は「いのちの道をたんたんと」歩んできたように見えた。
周藤久美枝(すどうくみえ)さん、73歳。「大庭(おおば)自然農園」を30年以上前に開いた人である。


一町歩と五反、4500坪という広大な面積が想像できるだろうか。田畑の面積感覚の単位はいろいろある。僕の場合は、町歩と反が感覚的になじむようになってきた。
ニワカ百姓を5年間続けてきた成果だ。
では百姓哲学と技術はどうか?と問われたら、それはまた別の話、と逃げておこう。

自分のことは棚に上げて、周藤さんの農園の話だった。広い農園というと町から遠く離れた村にある、というイメージかもしれない。だが、「大庭自然農園」は松江の市街からすぐそばにある。松江駅のそばにある僕のベース基地、野津旅館からは4キロほどの距離だ。


これほど近いところに自然農を学べる場所がある、ということも国つ神の思し召しかもしれない。

日本エコビレッジ研究会の野津健司さんは教師を退職して農の道を歩むと決めたとき、自然栽培、自然農の先達を全国に探し求めたという。
そして松江市内にある「大庭自然農園」にたどり着いたそうだ。

周藤さんに弟子入りするために、野津さんが初めて「大庭自然農園」を訪れたとき、彼はにこにこ笑っていたという。それはそうだろう。「灯台もと暗し」そのものだ。交通費も宿泊費も使わずに、毎日、自宅から通える場所に自然農の現場があったのだから。


僕はここに来たのは二度目だった。2014年4月27日、野津さんが主催した「西村和雄先生による有機農業講習会」と今回、2015年5月20日。

西村和雄さんは僕が箕面で借りている15平米の畑を提供してくれている(株)マイファームのアドバイサーをしていたこともあった。
その西村先生が、周藤さんの農園を見学したとき、「いい感じで草が生えとるな、気持ちええなあ」と感心していたのが印象に残っている。
周藤さんは西村先生に「そんなら、松江に移住してきたらどうですか?」と笑いながら言った。


僕は周藤さんに言う。「まだ生のアスパラを食ったことがないのです」と。
「はいどうぞ」と周藤母さんは、畑のアスパラをぽきっと折る。僕はそれを食べる。
甘い。美味い。ニワカ百姓の僕はこの頃から畑の野菜をそのまま口に入れる習慣がついたようだ。


アスパラの味が忘れられないのと同じように、周藤さんに関しては忘れられない話があった。

周藤さんは38歳のときに子宮ガンを患った。余命二か月と宣言されて、彼女はあらゆる治療法を試みたそうだ。そして自分の畑に半身を埋める荒療治までしてガンを克服した。余命二ヶ月からの壮絶な生還を、僕は農園見学のあとの交流会で聞いていた。

アスパラの味とガンの克服体験談。この二つの記憶を持って、僕は「大庭自然農園」を再訪したのだ。


翌日に田植えを控えた農園の事務所で僕は話を聞き始める。
例によって、「島根って半農半Xの先進県なんですよ」という話から。
すぐに答えが返ってくる。
「半農半Xは普通ですよ。私の母なんかもそれで食べてましたからね。それが普通。なかなか農業だけでは食べられないから……ダンナさんが稼ぎに出ないと」

半農半XのXは兼業農家の農業以外の稼ぎ方のことだけではないんですけど……。
半農半X研究所主任研究員は、なんとか塩見直紀さんのXにこめた思いを伝えようとしながら話を繋ぐ。

子宮ガンがどうして治ったのか、自分では分からないと周藤さんは言う。
「こうして農園を続けているのも病気したから。自分が死ぬのはもう怖くないですけど、やっぱり子供や孫たちには元気でやってほしい。誰でも親になってみると、そうでしょう。自分のことよりも周りを大事にしたい」
無我夢中で病気を治してから、勉強を始めたという。肥料と農薬をつかわない農業のこと、素材を活かす料理法、心と体の健康法など、周藤さんはあちこちに出歩いて勉強をしたそうだ。

そこで出会ったのが、一番尊敬している師、川口由一さんである。
川口さんは奈良県桜井市で自然農を実践し、その本質を伝えている。そして、生命の健全な姿を説き続ける。

体内にガンウィルスを招いたのは私です。私の体内がガンウィルスの発生するに適した状態になったからです。私の体内に問題があるのです。 
『妙なる畑に立ちて』(川口由一/野草社)P61
たぶん、周藤さんはガンに対する川口さんの考え方にも共感したのだろう。
周藤さんの場合は、ガンを克服したというよりも折り合いをつけた、あるいは自分の生命体を本来の姿に戻したというのが正しい言い方なのかもしれない。


周藤さんには4人の娘さんがいて、つい最近17人目の孫が生まれたそうだ。
まさに「おおまま」である。大庭は「おおば」と読む。周藤さんの名刺には「大庭自然農園」は「おおままのさと」と記されている。

「おおままって何ですか?」と質問したら、「孫が私のことをそう呼ぶんですよ」と笑う。なるほど。たんたんとしゃべっているようだが、貫禄を感じる。
「おおまま」は身体が動く限り、大庭の畑に立ち続けることだろう。17人の孫の総大将として。

周藤さんは、森繁久弥のテレビドラマ『七人の孫』のファンだったのかもしれない。「十七人の孫」というとき、自分の人生に対する誇りのようなものを感じた。

『七人の孫』といっても、まったく分からない人の方が多いだろう。
参考までに、主題歌「人生賛歌」(作詞:森繁久弥)の一節を。
どこかで愛する 人もありゃ
どこかで別れる 人もある
この空の下 この雲のかげ
いろんな人が 生きている~♪
そんな周藤おおままにも別れがあった。大工だったご主人を5年前にガンで失ったのだ。
自身の経験から様々な知見を持っていたのに「だめなものはだめだった。口惜しくてたまらなかった」。

『国つ神と半農半X』シリーズ取材では、ご夫婦の機微に触れることも多い。周藤さんは言う。
「あまり農業はしてなかったけど、主人は主人で自由にしてきた。北海道から沖縄まで歩いていた。長く生きりゃいいものじゃないと言ってましたからね。ははははは」
笑いながらも口惜しそうだった。

『自然農に生きる人たち』(新井由己/自然食通信社)より
周藤さんの話を聞いていると、孫とご主人と同じくらい、川口由一さんの名前が出てくる。農の師、生き方の師として本当に尊敬されていることが伝わってくる。

「川口先生はすごいと思う。真っ正直で。でも4年間、先生のもとに通ったけれど、あまり具体的に教えてもらったことは少ない。自分で考えなさい、土はそれぞれの土地によって違うから、というのが川口先生の教えでしたね。その土地にいていっしょに働かない限り、そこでの農法は分からない。聞く方が間違っているとおっしゃっていました」

僕は川口由一さんに会ったことはない。ただ、ニワカ百姓としてあちこちに顔を出して人の話を聞いているうちに、そのお名前はよく聞くことになる。また訊ねた先の書棚で川口さんの本を見つけることもある。

『川口由一の自然農というしあわせwith辻信一』より

自然農の師は、その著作『妙なる畑に立ちて』(野草社)で、こう述べている。
大切なことが一つあります。僕の言葉に決して執(とら)われてはいけません。僕の示す数字に執われてはいけません。言葉通り、数字通りに行ってはいけません。言葉、数字の奥にある理に心を向けられて、その理を悟り識ってゆかれて下さい。僕とあなたの違いがあります。同じ一つの生命ですが、個々の違いがあります。僕とあなたの住んでいる場所が異なります。気候風土が異なります。同時に作物の個々の性の相違があります。百人百様、百人百態、また一人百様、一人百態となるのが真の姿であり、本来のあり方です。固定したもの、決まったものはなにもないのです。天然自然の理を悟ること、自らの内に宿し蔵している神ながらの智力能力を、僕の言葉や数字からの働きかけによって目覚めさせてやることが大切です。僕が発します言葉の生命、言霊が、皆様の内にある霊と共鳴して、目覚めてゆかれることが大切です。(P37)
周藤さんは、川口先生の法則を守る。消毒しない。肥料はやらない。草や虫を敵としない。耕さない。
「田畑の流れを順繰りに考えていけば、できます。やっとできたところです」

やっとですか?! ニワカ百姓でもある文脈家は驚く。30年の時の流れに沿って「亡骸(なきがら)の層」を見つめてきた農園主の営為を思う。
「亡骸の層」とは自然農のキーワードである。土はそこに積み重なった動植物のいのちの巡りによって育まれていく……。
自然農は自然の営みといのちある作物に「沿っていく、応じていく、従っていく、そして任せる」そのことによって、自然の恵みを十分にいただき、いただき続けることができる、そうしたできる限り自然に沿った栽培のあり方です。 
『自然農という生き方』(川口由一+辻信一/大月書店)P51

松江の「大庭自然農園」は、写真集『自然農に生きる人たち』(新井由己/自然食通信社)でも紹介されている。
国つ神エリアの自然農学習グループとして、周藤さんが野津健司さんたちを川口先生のところに連れていったときのこと。
「あなたの連れてくる人はみんな変わっていますね」と先生は言われたそうだ。
そのことに関して質問してみると、周藤さんはすぐに答えてくれた。
「どこでもそう言われます。有名です。だって私が変わっているから。先生にはよく島根の風は変だと言われていました」

おや、ここでも「変人へそ曲がり文脈」を掘り当てた。僕は『上山集楽物語』を書いている頃から、ずっと「変人へそ曲がり取材」を続けているような気がする。
そのわけは僕もまた、まごうかたなき変人にしてへそ曲がりであるから。

「人間はいろんな人がいないと、この地球はもちませんからね。私はそう思っています。普通の会社員には会社員の生き方があるし、変わっている人にはその人の生き方がある」
と周藤さんは続ける。
これって、半農半X研究所的に言うなら「使命多様性」ですよね、塩見直紀さん。
川口由一風に言うと「百人百様にして一人百様」ということになりそうだ。



「何を遺すかと言われたら、私は自然を遺したいですね。それ以外ないと思います。何もないです」と周藤さん。
僕は「周藤さんの究極のXは何ですか?」とお約束の質問をしてみる。
「私には農しかないので、ただ健康に元気で畑で死ねたらいいな……」


島根の半農半Xについて取材を重ねていると、違和感を感じることもある。

「半農半X」とは兼業農家のことですね、農業だけでは食べていけないので、他で稼ぐ方法を探すのがXでしょ、という理解をされている方に出会うときだ。
もちろん、生業(なりわい)が重要なのは言うまでもない。半農半XのXが兼業農家の稼ぎ方であっても、塩見直紀さんは問題にしないだろう。

ただし、Xが稼ぎのことだけはない例だってたくさんある。
たとえ専業農家であったとしても、自らの農的営みで世の中に何かを働きかけようという志、すなわちXを持っていれば半農半Xなのだ、と僕は思っている。

Xとは天から与えられたミッション、天職のことである。Xにより稼ぐかどうかは本質ではない。
塩見さんから聞いている例では「半農半祈り」というのがある。綾部で小さな畑を耕しているおばあさんの言葉だ。
私は普段、家族のために午前中は小さな畑仕事をしています。本(『半農半Xという生き方』:引用者註)を読んだ後、私のエックスは何だろうと考えました。齢を重ね、身体も昔のようには動きません。あえていうなら、家族の健康やこの世の平安を祈ることでしょうか。 
『半農半Xな人生の歩き方88』P147
そういう意味でいえば、周藤久美枝さんは「半農半自然療法家」なのかもしれない。
本人は「農しかない」と謙遜されているが、農を抱きしめながら、マクロビオティックを研究し、ビワ灸にも造詣が深いという。さらには「二人ヨーガ・楽健法」の師範でもある。

この場合の「自然療法」とは、二つの面を持っている。
そもそも自然農というのは、米や野菜に育ってもらうことにより、自然そのものを癒やし、その本来のあり方に戻す農法なのかもしれない、つまり「自然を癒やす療法家」。
そして、もちろん余命二ヶ月から生還した人間として、「自然に寄り沿って人を癒やす療法家」としての側面もある。


周藤さんと話しながら、窓から外を見ると黙々と働いている女性が見える。
大谷怜美(おおたにさとみ)さん。若き「半農半自然療法家」である。

化学物質過敏症の彼女は、松江の建築会社を退職して大庭自然農園の研修生になった。そして朝から晩まで畑で働くことにより、大庭の自然に心身を治癒されてきた。あるいは大庭の自然を持続させるための役割を担ってきた、とも言えるだろう。

一年間の自然農研修での変化をおおちゃんはこう語っている。
一年を振り返ってみると、体力的にも精神的にも鍛えられたな~としみじみ思います。
体温が1℃上がり、体重は7キロ落ち、若干ほくろが増えましたが、健康そのもので、こういう暮らしが体をつくるんだなと実感しています。
畑では、一年前と同じ作物をつくっていても、新しい気づきがあります。それに見たことない虫や動物に会うと嬉しくて、日々学びが多く、毎日が勉強です。
僕は周藤さんのおすすめにしたがって、おおちゃんを手伝うことにした。
ジャガイモ畑の草をいい加減の長さに切って、畑に敷き詰めると同時に株元に土寄せをしていく作業だ。マイ鎌は持っていなかったので、周藤さんのを借りる。

畑でデイトをしながら、おおちゃんと話す。手と口を同時に動かすと話は弾んでいく。


おおちゃんのXも聞いてみる。「今は楽健法!」と断言した。

周藤さんの後を追って、おおちゃん自身も奈良の東光寺に通い楽健法の習得をしている。

「楽健法」は奈良県桜井市の東光寺の山内宥厳和尚が伝えている「二人ヨーガ」である。この文脈も深いものがありそうだ。
以下、山内さんの「楽健法経」テキストより引用させていただく。

「ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心せざる衆生には病患を癒やすには、はなはだ遠き手段なり」
「楽健法は、二人ヨーガ楽健法と呼称しているように、他力によるヨーガです」
「他人をして、楽にすることで、自分も楽になるという、布施の行の不思議を体験できることでしょう」

このあたりは、同じ桜井市に居住する川口由一さんの「自他の別なき一体」という自然哲学にも通じるところがあるのだろう。

おおちゃんは松江出身だ。
大庭自然農園の研修生を卒業したあとも松江をベースにして「ななむすび~出逢い気づき動き出す~」という場つくりユニットで活動を続けていきたいそうである。
アメリカ大陸の先住民イロコイ族が提唱した七世代後の未来を考える生き方に沿って。

この「七世代後」というのは半農半Xのキーワードでもある。


さて、大庭自然農園と国つ神である。

周藤さん自身と大庭自然農園に参集する人の話を聞いていると、やっぱり「縁(えにし)の力」を感じる。
「この農園のそばには国つ神系の神社がたくさんありますよね。そのことと縁の力についてどう思われますか?」と文脈家は周藤さんに問いかけた。

「神の魂ですね。神魂(かもす)神社の水がここまで来ています。うちの農園の井戸と神魂神社は水脈が同じなのですよ。いろんな人の縁がつながって、ここを掘ったら水が出るよ、と言われて41メーター掘ったら、ほんとに水が出た」


なんと、大庭自然農園は神魂神社と水脈が繋がっていたのだ!
『国つ神と半農半X』取材は本当に文脈が深い。神魂神社は日本最古の大社造りが現存する神社で国宝である。


神魂神社は大庭自然農園の東南東1.6キロの距離にある。
僕は周藤さんに神魂神社を背にして立っていただき写真を撮った。


私達は、人と呼ばれる神であり、私達も神の心から生まれた妙なる人であります。
私達は、人と呼ばれる天然全体であり、天の意志から生まれた妙なる生命であります。 
『妙なる畑に立ちて』(川口由一/野草社)P122
川口由一さんが「神」というとき、それは西欧的一神教の神ではないだろう。
おそらくは「山川草木」すべてに宿る神々。古より日本列島に住み着いていたとされる神々のこと。すなわち、それは国つ神のことではないだろうか?

川口由一さんの哲学が生まれた大和は「天つ神」に近いところにある。だが、大和はまた出雲と国つ神ネットワークでも繋がっているのだ。

川口さんが自然農の田畑を営む奈良県桜井市には三輪山(みわやま)がある。
その大神(おおみわ)神社に祀られている神は大物主神(オオモノヌシノミコト)。大国主命(オオクニヌシノミコト)とともに国造りをした仲である。

国つ神の末裔が半農半Xという生き方をするとき、妙なる世界が現出するのかもしれない……。


また長いレポートになってしまいました。しかも「五月後篇」が七月までずれこんでしまったというありさまです。六月篇の取材はとっくに終わっています。どこかの時点でこのずれを修正したいと切に願いつつ、今年も半分が過ぎたのです。
今回のレポートを書くにあたっては、松江市街地図をよく眺めました。
気になること。
龍のカタチをした島根半島の首根っこにあたるところには島根原発があります。国宝松江城からは8.5キロ、神魂神社からは15キロ。
大谷怜美さんの「ななむすび」では、最近、映画『シェーナウの想い』の上映会を開きました。チェルノブイリ原発事故をきっかけに自然エネルギーの電力会社をつくったドイツの人々の物語です。
さてと、『国つ神と半農半X』の文脈はどこまで繋がっていくのでしょうか?